■講演テーマ:「YMCA、世界最大の青少年団体の挑戦 ~地球市民育成と平和文化~」
■講師:島田 茂(しまだ しげる)さん (文学部哲学科’78年卒)
日本YMCA同盟総主事
■日時: 2014年4月16日(水) 18時30分~21時
■場所:ソフィアンズクラブ
■参加者数:30名
島田 茂(しまだ しげる)プロフィール
1978年、上智大学文学部哲学科卒業。
同年、横浜YMCA入職。水泳教室、野外教育などのディレクターや語学教育事業統括等を経て、第一回日本MBAフォーラム事務局長、横浜中央YMCA館長、富山YMCA総主事等を歴任され09年7月から日本YMCA同盟総主事を務めている。
■YMCAのキャンプに魅せられて就職を決意!?
みなさんこんばんは、今日は三水会にお招きいただいてありがとうございます。
私は1974年に上智に入学して78年卒なんですが、一浪しておりますので、(1954年生まれ)今年還暦です。現在YMCAの仕事をしているわけですが、学生時代はYMCAとはほとんど縁はなく、学科の研究室と八ヶ岳のソフィアヒュッテ、あと学校のプール、この3つが私の活動場所でした。
当時ソフィアヒュッテに入り浸りで、今総務局長をされている萬崎さん、彼としょっちゅう入り浸っていたんですが、山に行って何をしているかといえば、朝から晩までお酒を飲んでる、山登るのか酒飲むのかわからない。そのくらい好きでした。
プールのほうですが、当時たまたま山のトレーニングでプールを利用しました。その当時上智のプールの入場料が50円、後の学長されたある方がいつも手ぬぐいぶらさげて下駄でプールに通う姿を見て、哲学科でもプールに行くことが大流行した時があったんです。
シャワー代わりに行く気分でプール通いも始まったんですが、実は私は大学に入る頃まで、25メートルすら泳げなかった。これを機会に山のトレーニングとして少しづつ泳ぎを覚えたんです。
そしてついには、25メートルが50メートルに、50メートルが500メートルに、そしてついには1000メートルでもへっちゃらになったわけです。3年くらいかかりましたが、ここでクロールと平泳ぎが出来るようになった。
そして就職になるわけですが、4年の夏までドイツに留学することを考え、ほとんど就職のことは考えていませんでした。しかし、夏のある日学者には向かないと留学を諦め、就職することを決断しました。秋になって焦りました。JTBの指定校推薦を受け面接に行ったり、父親の紹介で旅行会社を受けたりもしましたが、どれもうまくいきませんでした。
たまたま就職課でYMCAという文字を目にし、就職説明会でキャンプを仕事にできると思いました。YMCAに関しては、父親が高田馬場にある山手YMCAで一年間非常勤講師をしていたことがあることと、小学校の同級生がYMCAのスキーキャンプに行ったことを知っているくらいでしたが、YMCAなら山に行ける・・・。だからYMCAのキャンプが就職の動機になってしまいました笑。
私は78年に横浜YMCA(藤沢)に就職いたしました。藤沢にはプールがあったんで、入職してすぐに、職員はプールで泳いでいいんですかと聞いたところ、毎日3000メートルは泳がしてあげるよとニタっと笑いながら言われたことを思い出します。
何のことかと思っていたそのあとに人事発表。その時3人同期で入職したんですが、そのうち2人は上智出身でした。上智じゃない1人に野外活動担当が命じられました。ありゃ山登りは取られちゃった、野外活動とはキャンプですから・・・。
次に進学教育、予備校の担当。これがもう一人の上智出身者に決まりました。私は学生当時代ゼミの助手もしてましたのでそれもなくなっちゃった。あとは何が残ってるんだろう、会館管理などの総務かなとか思ってたら、「島田くん、君は体育を担当しなさい」と言われました。いわゆる健康教育部門と言われるもので、水泳が主な教育現場になります。
水泳を教えろってことです。そのとき血の気が下がりましたね。YMCA全体で同期入社は男子20人、女子14人、拡張期だったんで、34人も新職員を取ってるんですが、男子の半分くらいは体育大学卒でみんな筋肉隆々、もと国体の選手とかもいました。そんな中私は哲学科卒で、山は好きだったけど当時体格はひょろひょろで、それがなぜ体育担当なんだと・・・。
しかも大学でも4年間で保健体育は全部落としていて、高校時代に学生運動に手を出してしまったため、高校時代から体育の先生ににらまれっぱなしで、留年しそうになったくらい全然体育の勉強していませんでした。
YMCAの始まりは、どうしようか、そんな状況からのスタートでした。
写真:熱弁を振るう島田氏
■YMCAはなんでも屋・・・
ここから約10年間、子供たち、障害のある子どもたちの水泳やキャンプなどの担当をしました。YMCAはキリスト教青年会ですから、やさしいんだろうなとか、スタッフは親切なんだろうなという幻想を抱いていたんですが、とんでもなかったんです。
全くの体育会系。軍隊そのもの(笑)。先輩がデッキブラシを持って上に立ってるんです。朝7時からトレーニングで、プールで泳ぐんですが、ずっと泳いでると気持ち悪くなるんで、顔を上げるんです、もう吐きそうになりながら・・・。するとデッキブラシでパーンと叩かれるんです。
指導者が、子供たちの命を預かるものが、泳げないでどうする。指導者は徹底的に訓練する必要があるというモノの考え、理論でした。
それで私たちはYMCAに寝袋で泊りこみで、朝7時から夜9時まで徹底的に肉体改造され、すっかり哲学はどっかに行ってしまいました。
全く哲学から離れた10年が過ぎた後、今度はいきなり「語学」担当しろと命ぜられました。今まで10年金子スイミングスクールとかセントラルスイミングクラブ、それがいきなりNOVA、今はなくなっちゃいましたけど。そういった英語学校に行けと言われるようなもんです。相変わらず凄まじい笑。
それから語学ディレクターとして、事業統括として担当することになりました。実は哲学科時代、英語はほとんどやっていなかった。ずっとドイツ語でしたし。でも有無を言わさず語学担当。
そうこうするうちに、語学担当になってから7年目、私のプロフィールにもある「日本MBAフォーラム」というアメリカのGMACという経営大学院の委員会と共同して日本でMBAのフォーラムをやろうということになり、初年度で約72大学、翌年度には90大学、イギリス、カナダ、アメリカがほとんどですが、世界のトップスクールを招きMBAフォーラムを実現させたんです。
これがいけなかったのか、突然腰に来まして、菌がたまって爆発して死にかけたんです。化膿性椎間板炎と言う難病ですが、これを話すと話が終わらなくなりますので、ここからなんとか復帰したところから続けます。
その後、予備校を担当することになり、そして、1999年に富山に赴任し保育園を立ち上げました。ここまで来ればなんでも屋ですね。振り返ってみれば、自分の専門性は一体何だったのかとも思うのですが、哲学はつぶすものもなければ、ある意味で何にでもなれる学科だったなと思い返すわけです。
写真:会場の様子
■両親はシンガポールで劇的な出会い・・・
ところで私の母親は中国人なんです。今では国際結婚はいっぱいありますが、両親は1945年3月、いわゆる終戦前に結婚したんです。それも国際結婚。徴兵軍人だった父親が、1943年、シンガポールでのある出来事から、母親と出会うことになります。
母は当時上海に住んでいて、母の姉がいるシンガポールに手紙を届けるために、一人でベトナム経由でシンガポールに来ていました。そこに丁度日本軍が攻めてきた。その攻めてきた第二次先遣部隊の中に父親がいた。
シンガポールは1942年12月に日本軍の傘下に入ります。そして対する連合軍のうちイギリス軍はすぐに降参。そこでシンガポールにいた華僑の共産党部隊が徹底抗戦を始めます。それによって日本軍は中国人の掃討作戦をすることになりました。
一方母親は姉の元に向かいました。姉は当時シンガポールのプキパオという市内の中華街にいたんですが、そこの男子の若者はみんないなくなっていた。その中で、母親と仲良かった当時17歳だったある青年もいなくなっていた。なんで消えてしまったのか。それを調べるということで、父親が紹介されました。
父は元三井物産。その関係で父が紹介されて調査することになったわけですが、結局は殺されていました。当時日本側5000人、中国側4万人が殺戮されたと言われています。その中にその青年もいたわけです。
彼は全く軍隊とは関係なかった。お金持ちの青年でゴルフ三昧。ゴルフしてたから顔が真っ黒。その青年の写真が私の家にありました。当時日本軍が何を根拠に殺すと判断するか。ヘルメットの跡があるかどうか、つまり日焼けしてるかどうかで決められてしまった・・・。最近の本に書いてありました。
彼のことは残念でしたが、両親はこれがきっかけで母と正式に結婚することを決意し、二人で祈り合うことになります。1943年に復員し、父は一時三井物産に復帰し、そこから再びシンガポールに赴任し、45年に結婚しました。
子供のころから、私は5人兄弟の4番目でしたが、おまえは日中の平和の架け橋なんだぞと、常々言われ続ける一方、当時の小学校4年の頃には、先生から社会の時間にいじめられるというか、中国の話題が出ると必ず何か言われる。そして生徒みんなからも指さされる。私の小学校4年から6年は学校に対する嫌悪感というか恐怖がありましたね。
今思うと、当時の先生、40代くらいだったでしょうか、いわゆる戦後10何年で、軍隊出身だったら、いろいろ恨みもあったんだろうなと・・・。
写真:会場の様子
■疲労からの開放から生まれたYMCA
さあみなさん改めて、YMCAのイメージって何でしょう。何か関わったことありますでしょうか。
私は、門脇佳吉(上智大学名誉教授)という、一般教養で習った方もおられるかもしれませんが、門脇先生が私の恩師だったんですが、私がYMCAに入ると決めたときに、えらく怒られました。今は勿論認めてくださってるんですが、それくらい当時YMCAって一体何の団体なのかわからなかったんですね。
キリスト教団体であるということと、いろいろ野外活動をやっているくらいのイメージでしょうか。我々の一つ若い世代くらいだと西條秀樹の「YMCA」のイメージじゃないでしょうか。
なかなかイメージがよく掴みにくいと言われるんですが、かつてだと、大阪行けばYMCAというと予備校でしょという人が多かった。ノーベル学者の利根川進さん。彼は大阪YMCA予備校出身です。
東京で私くらいの世代に聞くと、YMCAは英語学校、日本で一番最初の英語教育機関、ホテル、体育館。神奈川に行けばYMCAはプールという人も多いかもしれません。
イメージはばらばらだというのが今でもYMCAの大きな課題です。
YMCAは、産業革命の時代、1844年、いまから170年前に、ジョージ・ウィリアムズという青年が、教派を越えて12人の仲間と生活改善事業のための奉仕組織として設立したものです。
当時産業革命の時代、いろいろ起きるわけですが、マルクスやエンゲルスがこの前に「共産党宣言」を書いたり、1844年には生協運動も始まります。つまり産業革命で農村から若者が都会に来る、ロンドンの街に来る。街では暗いレンガ造りの建物で、衛生環境も悪い寮のようなところで生活する、そしてレクリエーション施設などもない。あるのはバーだけ。そういう中で若者たちが体も心も滅ぼしていく。
そういう産業革命の時代に、ジョージ・ウィリアムズというまだ20そこそこの若者が、都市に出て呉服商に勤める。そこで見た光景はすさまじいものでした。朝7時から夜7時すぎまで週6日の働き通し。勤務時間後には強い酒を飲んだり不道徳なことをして時を過ごす日々。
極度の疲労は人の心・精神をも弱くする、ということを目の当たりにし、ジョージ・ウィリアムズは何とか友のために、友が健全に生きていけるようにしよう、そして多くのクリスチャンが教会から離れていかないようにしようと、同じ考えを持った12人の仲間で集まりました。会社のロビーを開放してもらって、共に聖書を読みあったり、共に祈りあったり、お茶を飲んだり、お菓子を食べたり、そういったグループ活動から始め、それがのちのYMCAとなっていきます。
当時教育を受けられるのは一部のエリートだけでした。そこで彼らは今度は、教育講演会を始めます。精神的に目標を持って生きていく、そういう場所を作ろう。ホテルのロビーで講師を招いて様々な教育講演会を開きました。これが爆発的な大ヒットになるわけです。
彼らは何もないところに事業を興した。そこにロビーに入りきれないくらいの若者が集まった。その若者から会費を取る。会則を作る。幹事をする職員を雇う。現在のNPO「Nonprofit Organization」の走りはYMCAではないでしょうか。
一人の青年が地域のいろんな課題に痛みを思い、共に(相互に)成長し合うという、まさにYMCAのモットーはここから生まれたわけです。
こういった運動を世界組織にしていこう。1844年にYMCAがスタートし、彼らは世界のいろんなキリスト教の青年たちに手紙を書きました。産業革命で都市にみんなが集まる、そこにこんな問題に直面する、だから共にこのことについて問題を解決しようと呼び掛けていきます。
■キリストの精神を広く青年たちに活かし続ける・・・
1851年にはボストンYMCAが誕生。その後ヨーロッパ各地に次々とYMCAが広がっていきます。10年間で約10カ国のYMCAが誕生しました。これに拍車をかけたのがパリの万国博覧会(1855年)。ここで彼らは結集を呼び掛けるんです。その原動力となったのが、当時ジュネーブYMCAの創設者でもあったアンリ・デュナンです。
いわゆる赤十字運動を起こした人物。彼は世界の仲間は、国や民族が違っても共に仲間であり続けよう、互いに成長していこうという考えの持ち主でした。
彼が世界に呼び掛け、パリ万博で「世界YMCA同盟」が結成され、ここでパリ基準(Paris basic)が作られました。何をもってYMCAたるかを示したものです。
その後、世界経済はアメリカに移り、心の成長というよりも、身体的な成長、つまり、持て余している若いからだを鍛えることから、スポーツ活動をボストンYMCAで始めます。
YMCAの形態は、その後10年で、地域地域で必要なことが中心になって各地はばらばらになっていきます。ヨーロッパでは、若者が旅をするようになって、ユースホステルが盛んに作られました。
じゃあ、何を持ってYMCAというのかですが、
「われら世界のYMCAは、イエス・キリストを聖書にしたがってわが神わが救い主と仰ぎ、信仰とその生活において彼の弟子でありたいと願う青年たちを一つとし、イエス・キリストの精神が広く青年の間に活かされるよう、その努力を結集する。
その他のことがらについての意見の相違は、それ自体としていかに重要であっても、そのことによって世界同盟を構成する加盟および準加盟YMCAの間の友好的な関係をそこなうものであってはならない。」
すべてはこのパリ基準なんです。
その後、1973年には、東アフリカ・ウガンダの首都カンパラにて、パリ基準を再確認するとともに、現代の状況をふまえて新たに細かい規約を加えました。これが5項目から成る解説文「カンパラ原則」。(全文は省略)「全人教育をする」などが加えられました。
2001年には「チャレンジ21」でさらに、人権やジェンダー・エクイティの問題、平和の問題などをミッションに加えてます。
しかし基本はパリ基準。これは宗派とかじゃなくて、イエス・キリストの生き方在り方、特に他者に奉仕するとか、互いに愛し合うとか、そのようなことを実践的に活動するというのがYMCAなんです。
いま、世界のYMCAが目指すことは、「Empowering Young People」(若者のエンパワーメント)。若い人たちを力づける、若い人たちのために働くことを目標にしています。ヤングがついてるんだからあたりまえだよなって思いますよね笑。
現在119カ国の国と地域で会員は5800万人。そのうちユース世代(30歳以下)は2800万人。ユースを支えることが最大の使命になっています。
こうしたことから、今では「YMCA WORLD Challenge 2014」が始まっています。2012年に行った時は47万人が参加。今回は6月6日から3日間。6月6日はロンドンにYMCAが誕生したとされる日で、YMCA創立170周年。こういったYMCAの青年たちを集めて意識調査をしてみようということで、この2年で「One million voice」ということを実施しています。
これは、現在登録している国は87カ国になりますが、87カ国の青年の意識調査をするということです。統計学のアメリカの博士にも協力を得て、その手法を学び、若者が若者にインタビューをする。これはILOやWHOが期待を持って見てくれています。
これだけの数のデータを集められる団体はYMCAを置いてないだろう、しかも政治色・行政色がないということで、期待をされています。青年の就職の問題とか、貧困の問題、環境の問題、人権の問題、など多岐にわたってアンケートが取られます。
今後のYMCAの活動にさらなる期待をいただければと思います。ご清聴ありがとうございました。(まとめ:土屋夏彦 ’80理電)
写真:懇親会にて・・・