紀尾井の森カルチャー倶楽部第8回/三水会2014年3月
マスコミ・ソフィ会、三水会共催 諸田玲子氏特別講演会(講演録)
■講演テーマ:『波止場浪漫』こいばなし
■講師:諸田玲子さん(1976文英・作家)
■日時:2014年3月26日(水)18時30分~21時
■場所:紀尾井坂ビル5階第4会議室
■参加者数:38名
※この講演録は当日の同録音声から主要な箇所を文章に書き起こし加筆・修正したものです。
諸田玲子氏
<プロフィール>
上智大学文文学部英文科1976年卒業し外資系企業勤務を経て、作家向田邦子さん、橋田壽賀子さん、映画監督山田洋次氏などの台本のノベライズや翻訳等を手がけた後、作家活動に入る。
●1996年『眩惑』でデビュー。
●1999年第9回コムソフィア賞受賞。
●2003年『其の一日』で第24回吉川英治文学新人賞受賞。
●2007年『奸婦にあらず』で第25回新田次郎文学賞受賞。
●2012年に『四十八人目の忠臣』で第1回歴史・時代小説大賞作品賞を受賞。
● 現在日本経済新聞朝刊に『波止場浪漫』を連載中。4月6日より明治座で著書『きりきり舞い』が田中麗奈主演で上演される。(舞台稽古がユーチューブで見られます)
時代が変わり、人も変わり、町も変わり、でも恋は変わらない
▼『波止場浪漫』執筆にあたっての作者口上
「恋の話を書きます。せつなく艶めいて、めくるめく……悲恋。時は明治20年代の半ばと大正の初めです。日露戦争をはさんで日清戦争と第一次世界大戦の前後、これまであまり書かれていない両時代の世相と市井の人々の暮らしを丁寧に描きたいと思います。
舞台は清水港。巴川の河岸港から外洋港へ開港を夢見て築かれた波止場へ明治9年、いち早く船宿を建てて引っ越したのが清水の次郎長でした。主人公は、次郎長の娘けん“波止場のおけんちゃん”と呼ばれて愛された実在の女性です。明治から大正を気丈に生き抜いた一女性の身をこがす恋をどうぞ堪能してください」
今回の第8回紀尾井の森カルチャークラブ講演会は、マスコミ・ソフィア会と三水会共催で行われた。諸田さんは、現在日本経済新聞朝刊に『波止場浪漫』を連載中という多忙の中会場に登場した。
▼コムソフィア賞受賞して15年
上智は来るたびに変わってしまってますね。私がコムソフィア賞いただいたのは、あれは1999年のことで、もう15年前になります。その時の会報を見て、ああ、こんな顔をしていたんだなとしみじみと眺めております。今年は還暦で、あまりもう人の前に出たくない歳になり、外に出て遊ぶのもまれになってきました。
受賞時のコムソフィア誌表紙(クリックで拡大)
以前、4、5年前になるでしょうか、上智の学生さんたちとお話をすることがありまして、500人くらいの講演会でした。学生さんに、時代小説でこういうものを書いていますよとか、いろいろな話をして、司馬遼太郎さんや北方謙三さんのお話もしたのですが、皆さん、あまり反応がありませんでした。唯一、宮部みゆきちゃんとカラオケをしたと言ったら、みんな、パッと顔を上げたぐらいでした。今はなかなか本を読んでくださる方がいらっしゃらないのかな、特に時代小説はそうかなと。そういうことを日々感じています。
▼リストラされ、怖いもの知らずに書き出す
私は、ここ上智にいたときにはシェイクスピアの演劇をやったりして、お芝居もとても好きでした。だからなぜ時代物を書いているのかとよく言われるのですが、私は卒業してマックスファクターという化粧品会社に入ったのですが、外資系の企業で7回ぐらい親会社が替り、リストラされてしまいました。それで本当に仕事が何もやることがなくなったとき、英語も一生懸命やりたいとは思っていたのですが、語学って耳ですよね。耳がいい方は何カ国語も覚えてペラペラとしゃべれる。私の友達も苦もなく覚えていましたが、どうも私はだめだと思いつつやっていて、そのときに急に日本のことを知りたいなと。
それまで外国にもいっぱい行っていたのですが、なぜこんなにわからないのかなということがあったときに、昔の人のことを書きたいなと、ふと思ったのです。でもそのときには、時代物という意識は全くありませんでした。ほとんど江戸時代、室町と鎌倉はどっちが先かなとか、そんな意識しかないぐらい、本当に歴史を知りませんでした。でも怖いもの知らずというか、そこから書き出したわけです。
数えてみたら、書き出してからもう60冊になるんですね。今、新聞の連載だけで7紙目です。読売とか東京とか、いろいろなところでやらせていただいて、新聞はとても多いほうですが、よく書いたなと、自分でもびっくりしています。
▼なぜ『波止場浪漫』を書いたか
まず初めに、なぜ『波止場浪漫』を書いたのかということについて、少しお話しさせていただきたいと思います。
私は静岡の生まれで、ご存じの方もたくさんいらっしゃると思いますが、清水の次郎長の末裔になります。あまり自慢できる先祖ではないので、うちの母も「人には言うな」と言われながら育ったようです。実を言うと、うちの母方の祖母の祖母が次郎長のお兄さんの子ども、つまり姪で、次郎長の養女になってお嫁に行っているという人です。
母の生家は、昔は千畳楼という清水の大きな遊郭でした。遊女の方たちに母はとてもかわいがってもらったそうですが、日暮れ時になるとお囃子が鳴ってみんなが来て、それで廊下に女の人の写真が飾ってある、そういうのが母はすごく嫌だったようです。そういうこともあって、母は静岡銀行の銀行員である父のところにお嫁に行きました。銀行員の父と母、私はそういう家庭で育ちましたので、小さいころは、次郎長のことは全然知りませんでした。
その母のお母さんが静岡にお嫁に来たものですから、私が小さいころはあま清水に連れて行ってもらった記憶もありません。私のときにはもう遊郭ではなくて旅館になっていたのですが、すごく大きな旅館で、1回だけ母に手を引かれて行った記憶が残っています。暗い廊下を上がっていくのですが、謎めいた暗いところです。やがてポッと陽の当たるところに出ると、畳のところにおばあちゃんがいました。着物を着ていて、小さい人ですが、すっと背筋を伸ばして座っている。私は敷居の向こうのほうで、母に言われてお辞儀をしました。「お前はまめな子になるよ」とか、何かわけのわからないことをおばあちゃんに言われて……。それが最初で最後の記憶です。
▼執筆の原点は新しい時代小説を目指す―次郎長物では地元よりクレーム
まず次郎長物を私の小さいころの思い出をたどっていくつか書きました。ただ、これは地元の方たちからはすごく怒られました。全然、皆さんが書いてほしい次郎長ではなかったために、いじめられたのでやめまして、それで全然違うことをずっと書いてきました。私は歴史物を書くときに、何で歴史物というのは捕物帳とか人情物みたいな江戸物か、いわゆる信長、秀吉みたいな歴史物しかないんだろうというのがとても疑問でした。たぶん歴史の専門家だったらよかったのですが、全く知らないところから始めたので、何かもっと日本の中にも心理ミステリー、例えばデュ・モーリアが『レベッカ』を書いていますが、ああいうものが時代物でも書けるんじゃないかとか。最初に書き始めたのはそこが原点でした。
だから、私は何か新しい時代物を書きたいなと。時代物というと、なぜ戦国時代とかああいうものしかないのか。男の方たちは、関ヶ原がどうのとかがお好きですが、何かもっと違う時代物を書きたいというのを常に思っていました。
この『波止場浪漫』、私が清水を舞台にしたのは、次郎長のときにとにかくいじめられたわけです。呼び出されてすごく怒られました。なぜかというと、次郎長物の最初、『からくり乱れ蝶』を書いたときに、お蝶さんが殺された理由をいかにも次郎長が殺したようにストーリーを書いたのが気に入らなかったらしくて、静岡の人たちが東京まで押しかけてきて怒られたぐらいです。
▼書きづらい偉人小説
地元には、長年かけて心血注いで研究してらっしゃる郷土史家の方がいろいろいらっしゃるわけです。それは本当に私も反省するところですが、私たち小説家は、その皆さんが研究してくださったもののいいとこどりをして、面白い奇想天外な話を書くのです。
私もなぜ小説を書くかということになると、小説というのは大胆な発想でなかったらつまらないと思うのです。でなかったら歴史家です。そこは全然違うと思います。でも、なかなかそれをわかってはいただけない……。ですから小説家は、家康が2人いたり、そういうことをどんどんやる。このごろマンガで大奥が逆さまになったりしていますけれど、いかにして真実と物語をくっつけるか。物語を物語として白けさせないためには、ディテールをすごく丁寧に書かなくてはならない。うそをそのままうそで書くと、絶対にそれは読んでもらえない。そのことはわかっているのですが、ただ、そこに大きな発想がないと、何かテーマがないと、それだったら歴史の研究家になってしまうと思います。その辺がどうしても、皆さんの資料を使っているので難しいものがあります。別に悪く書こうとしているわけではないのですが、人間を書くとなると、偉人というのは小説では書きづらい。
▼日経を賑わした朝刊の『愛の流刑地』、夕刊の『奸婦にあらず』
かつて『奸婦にあらず』という小説、大老井伊直弼とおたかさんの話を日経新聞の夕刊で書かせていただきました。これは本当に前々から書きたくて、でもやっぱりなかなか資料がなくて、不思議なことにこれも、書こうと思う少し前に史料がいっぱい出てきたものです。今までテレビでやったりしたときは、あまりおたかさんのことはよくわからなかったのですが、それを地元の方が調べていて冊子みたいなものにまとめてあった。その方は、私が書くときには亡くなっていて、だからお会いしたことはないのですが送ってくださいました。なぜ送ってくださったのかというと、私は『其の一日』という本で吉川賞をいただいているのですが、その一つにおたかさんを書いたのです。
それは何か小さいころに見て印象に残っていて、女優淡島千景さんがやっていて、たぶん小学校くらいだったと思います。1回目のNHKの大河ドラマ『花の生涯』でした。密偵という女の人が素敵だなと記憶にあり、短編で書いたわけです。そのときにはわからなかったことが、その短編を見て資料を送ってくださった方がいらっしゃった。それでいつか書こうと思ってちょこちょこ調べていたら、日経さんから連載小説の話がありました。
日経新聞で私が夕刊を頼まれたときに、朝刊は渡辺淳一先生の『愛の流刑地』でした。『失楽園』のあとですからすごく人気がありました。ただ、社長さんや皆さんはすごく大変な思いをしていらっしゃいました。つまり、子どもが読んでしまって困るとか。日経新聞なので、どうしても男性の目から見た女性になるので、とても奥様方から批判が多かったようです。日経の人は対応が大変で、社長さんはよく謝りの手紙を書いていらっしゃいました。
もう懲り懲りだということで、じゃあ今度は何か女性を主人公にしてくれと。そう言われて、そのときパッとひらめいたのが、おたかさんでした。「そういえば、おたかさんの資料がある。ぜひ彼女を書きたい」と思ったのです。それで日経のちょうど『愛の流刑地』と並ぶようになりました。
▼売れ筋はシリーズ物の時代小説
皆さんは、小説家なんて好き勝手に何でも書けると思われるでしょう。でも結構そうでもないんです。やっぱり本を出すというのはビジネスですから、こういうものは強制されるわけではないのですが、売れないものを言うとすごく嫌な顔をされます。今は平安朝はいいのですが、ひところは平安朝と言うだけで嫌がられたりもしました。
私は『お鳥見女房』や『あくじゃれ瓢六』などのシリーズ物をいっぱい持っています。別に自分では売れるから書いているのではなくて、そういうものも一つとしてとても面白く書けるのですが、正直なところシリーズ物が売れるのです。今、時代小説の書き下ろし文庫というものが出てきたのでまた少しバランスが崩れていますが、やはりシリーズを持っているととても売れます。今回、『天女湯おれん』も7刷、8刷ぐらいになっていますが、だんだん長いこと売れてくるのです。
正直なところ、単行本を1冊出して増刷がかかるというのはなかなか難しいです。この前、林真理子さんと対談しましたが、あんな方でも「『野心のすすめ』を出せば売れるけど、徳川慶喜を書いても売れない」と言って怒っていました。なかなか単発物は売れにくいです。時代物の中ではシリーズ物が圧倒的に売れますから、どこの出版社もシリーズ物を持ちたがります。
▼書きたかった地方の普通の女性たちの暮らし
私が、清水を書こうかなと思ったのは、不思議なことに、日清戦争、日露戦争あたりは本当に小説で書かれていないのに気付いたのです。例えばこの時代、夏目漱石がいます、樋口一葉がいます。松井須磨子がいたり、いろいろな人がいる。司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』のようなすごい小説はあります。でも、このころ地方の普通の女性たちがどういう暮らしをしていたのかは、なかなか地味に書かれていない。そして私自身も、何しろ波瀾万丈、数奇な運命が好きなものですから、地味に動かずに書くのはすごく書くのがつらいのですが、次にまた波瀾万丈なものを書くにしても、ここで絶対に動かずに書いてみることが私にとってもいいのではないか。そして、歴史としてもそんな大げさなことを私が書けるわけではないけれど、今そういうものを書いていないとどんどん資料もなくなってしまいますので、やっぱり書いておいたほうがいいんじゃないかというような、ちょっと一つの使命感的なものがあって書き始めたのです。
今日は恋の話と言いましたが、そういう意味なので二転三転して、最初は清水という小さいところでだんだんに港ができていく。清水は開港して外国船が来るようになる。そのすごく勢いがある明治の話を書こうと思ってタイトルが全然違いました。でも、それからまたはたと考えて、大正を入れることにした。なぜなら日清・日露戦争があったことで、今の私たちの、これから戦争に向かって行っては困るのですが、太平洋戦争になっていくきっかけというものは確実に日清戦争から始まっています。子どもたちが旗を振って戦争万歳と言い始めたのが日清戦争です。
なぜ日清戦争か。これは明治維新からつながってくるのですが、やはりここのところの歴史を書くにはその日清戦争のときの人々の沸き立つような思いが日露になり、大正はすごく退廃的になってきます。私は歴史の知識も浅くて自分でもよくわからないので、勉強しながらその辺も少し書いてみたいなというので、明治と大正を交互に出していく。とても新聞では読みにくいのを承知で書きました。いったん別れた男が戻ってくるという恋愛物です。
▼人も変わり、町も変わり、でも恋は変わらない
とにかく恋愛物で書こうということは決めていたのですが、今はもう連載はあと2、3カ月ということで、ここまで書いてきています。皆さんは、ソーントン・ワイルダーの『わが町』はご存じですか。小品で地味な作品のお芝居ですが、ピューリッツァー賞を取っています。自分で書いていて、全然そんなことは思いもしないで書いているのですが、このごろすごくその脚本を思い出します。というのは、昔お芝居をやっていて端役か何かでやったことがあるのですが、でも、あまり面白くないなと当時は思ったのです。一つの小さな町で一つの家族がただ生きていくだけの話です。だんだん死んでいって、最後は死んだ人の会話か何かになったりするような、何も起こらない話です。
でも、何か今ふと思いつくと、『波止場浪漫』では小さな事件もいっぱい起こります。次郎長も出てくるし。でも、明治を書き大正を書き、私はその日清、日露を越えて、どんなふうに変わっていったかも書きながら、人も変わり、町も変わり、でも恋は変わらない。それを書きたかったのです。
何か同じように、同じような事件が起こり、同じように人は死に、同じように時はうつろっていく。戦争がどうだというのも同じようなことが起こっていくということを、書いていて私自身もすごく考えさせられています。
それと、ものすごく私的なことですが、ちょうどこれを書くという話が来たころから母の具合が悪くなりました。父はもう14、15年前に亡くなっていて、静岡に母が一人で住んでいたのです。すごく元気で、俳句をやったりして、私のこともすごく応援してくれていた母でした。しかし、ある日やはり認知症なんでしょうか、突然、熱が出て、その熱はすぐに引いたのですが、それから様子がおかしくなってしまいました。
母は一人でいられなくなりました。私は母を最後まで、暮らし慣れた静岡で死なせてあげようと思っていたので、24時間家政婦さんを付けたり、私も一生懸命帰ったりしていたのですが、でも、どうしてもだめでした。それで成城のホームに、2年半ぐらい前に連れて来ました。母を静岡で死なせてあげられなくてかわいそうと思いながら、この2年半、『波止場浪漫』を書いていますが、お蝶さんが亡くなり次郎長が亡くなりと書いていくと、すごく個人的なことなんだけど、やっぱり母がどんどん衰えていく。今はもうほとんど声が出せない状況で、ゼリーみたいなものを1日に2つ食べたら拍手で、何とか点滴で生きている状態です……。
去年の今ごろは、もう助からないかな、夏は越せないだろうと思ったら夏が越せて、もうお正月は無理だろうと思ったらお正月が越せて、桜は無理かなと思ったらまだ何とか桜の季節まで生きてくれているので、もういつ何があるかわかりません……。
▼母の命のカウントダウンに歴史を思う
そういう、母の命がもうカウントダウンというところに、ちょうどたまたまこれを書く時期が重なったということがあるので、大恋愛の元気はつらつを書くのが、何かどんどん、やっぱり変わってきているのかなというのもあります。それはもう、小説そのものが自分と切り離せないものであるので、これは何と言われてもたぶん仕方のない方向だったなと思います。
そのことが実際あって『波止場浪漫』を書いていて、自分の人生やいろいろなものを重ねて書けたので、かえって日経さんにはありがたかったです。こういうエポック的なものだったのかな、人間は何で生きて何で死んでいくのかというようなことをとても感じます。 私も本当に母親っ子で、母のところに行って母がどんどん自分の娘みたいに今はなって、母のところに行くと頬をくっつけて5時間でも6時間でもいるんです。お母さんをなでたりさすったり。でも、もうだんだん足が壊死になったり、血が出てきたりと、いろいろなことを見ていると、初めはすごくつらいと思いながら小説を書いていましたが、でもそういう、歴史を書いているということをとても思います。全員が死んでいくわけです。そういうことにどうやって向き合うか。
清水のおけんさんという主人公が、戦争経験し、人間は同じことを繰り返しているんです。自分ではそのつもりはないのに、明治の事件が本当に同じようにまた繰り返される。繰り返すつもりがないのに繰り返してしまうみたいな。きっとたぶん、50年たって、私たちがみんな死んでしまっても、また人は同じようなことを、地球が爆発しない限り繰り返しているのかなと思いながら、今、私は書いています。
▼書いていて変わった次郎長像
私は、『波止場浪漫』を書いていて先祖の次郎長のことを、すごく嫌だと初めは思っていました。でも、明治維新からガラッと変わって悔い改めたのでしょうか、港に船宿をつくったり、初めて清水で英語塾をつくったり、富士山の開墾をしたりしました。しかも開墾には囚人を連れていって、全部縄とかを解いて、家族にも会わせています。結局うまくいかなかったのですが、開墾は10年間ぐらいやったり、相模の油田を開発しようとしたり、とにかく社会事業家にガラッと変わって……。根が単純な人間なので、自分の先祖がそういう人だとわかると、そうすると今度はうれしくなります。
また面白い話があります。これは、すっ飛んだお坊さんと一緒に次郎長が質屋をやります。でも、みんなお金をあげてしまうのです。おまんじゅうまで付けて帰してしまうので、すぐにつぶれてしまう。とにかく晩年は、近所の子どもたちにお菓子をあげたりするのが好きな好々爺になってしまったようです。
▼歴史から消えた軍夫
今日の『波止場浪漫』の中で、日清・日露戦争についてはだいぶ半藤一利先生に教えていただきました。さっき、どうしてもこの時代を書かなければと思ったと言いましたけれど、それについて最後に一言だけ、日清戦争のとき、軍夫というのがいました。それこそ、博徒だのいろいろな人たちが行くのですが、半藤先生と話をしていてびっくりしたのは、軍服を着ない人たちもいたということです。日本は馬がいなかったので大陸に初めて戦争に行くときに物を運ぶ手段がない。それで馬の代わりに人間がいろいろ荷物をかついだりリヤカーを引っ張っていくのですが、軍服も着ずに、また武器もほとんど持たずに、勝手に好きな武器を持って行けみたいな感じで行かされた人たちがいた。そういう人たちが、日清戦争で沢山死んでいます。
それが問題になって、日露戦争からは軍夫いなくなるのですが、その歴史をあちこちで調べてもほとんど抹消されてしまっている。つまり、歴史というのは都合のいいことしか残らない。これは書いていてすごく思います。
時代小説を書いていて歴史の裏話には、いろいろあるのですが、今日はあまり色っぽいほうの話にならなくて申し訳ありませんでした。それでは、ここで終わらせていただきます。(拍手)
▼余談
諸田さんのお話は弾み、これまで書いた時代小説の多岐にわたった。ここでは『波止場浪漫』の話に絞りまとめた。多くの連載ものを抱え大変な毎日、諸田さんの元気のもとは、朝起きてABBAをかけ、夜寝る前には、かつてのテレビドラマ『奥さまは魔女』を見て癒やされるという。
(文責:向山肇夫 63法法)