上智大学 マスコミ・ソフィア会主催
紀尾井の森カルチャー倶楽部 第九回

講演テーマ:「縄文の華”火焔土器”の謎に迫る」
講師:古屋毅(ふるやたけし)さん(元昭和シェル石油勤務)(’57経商)
日時:2014年9月24日(木)18時30分~21時
場所:四ツ谷上智大学構内12号館1階・ソフィアンズクラブ

※この講演録は当日の同録音声から主要な箇所を中心に文章に書き起こし加筆・修正したものです。

■古代史を研究することになった運命的な出会い・・・

1_IMG_0166.jpg古屋毅氏

1957年上智大学経済学部商学科卒業の古屋毅(ふるやたけし)です。

今夜は、最終的には”火焔土器”の謎が私なりに解けてしまったということを発表する場にしたいと思っておりますが、その前に、私が古代史にのめり込んだいきさつについて、面白い話がいっぱいありますので、そのあたりからアラカルト的に自己紹介を兼ねておしゃべりしてみたいと思います。

私は昭和32年に卒業してすぐシェル石油に入社しまして、石油会社で定年までずっと行ったんですが、最初は転勤族でもありまして、本州は大阪名古屋岡山広島、そして東京に帰ってきて、そのあと静岡などなど。ところが途中から特約店の経営がおかしくなると出向しろとなり、出向屋になり、全国6カ所、会社の立て直しに奔走いたしました。

その際に営業部門で、燃焼機についていろいろやりました。石油の技術と言えば「燃焼」と「潤滑」と石油化学での「分解」このあたりで、一般的には「燃焼」と「潤滑」。私は商学科卒なので、徹底的にトレーニングをされ、売り子として通用するように叩きこまれましたが、とりわけ「潤滑」と「燃焼」には興味を持ちました。

そもそも私が古代史にのめり込んだ原点というのは、弘前にいたときに、十和田湖の近くにストーンサークル(大湯環状列石)がありまして、何のために作られたのかは未だ不明なんですが、これに巡り合ったことがきっかけです。

ヨーロッパなどでも(大湯環状列石)は良く見られますし、北海道にもあるんですが、南のほうにはあんまりないんです。関東あたりまでがギリギリ。そんなことからなぜこんなものを古代の人が作ったのかを調べたくなったわけです。

十和田湖の先に迷ヶ平(まよいがたい)という場所があって、ここにキリストの墓がある。観光バスでこのあたりを通ったときに説明があって、そのときは信じなかったんですが、あとで調べてみたところ、キリストではないかもしれないが、ヘブライ人が(紀元前から)日本に来ていた・・。これにも興味をそそられました。

七戸(青森県)では7月14日に「ナニャドヤラ」という盆踊り(お祭り)があって、祝詞のようなものを読むんだけど、日本語には聞こえない。ヘブライ語に訳すと意味がわかる。
(岩手県一戸町出身の神学博士・川守田英二が大正時代に唱えた説)ヘブライ人がどの時期かはわかりませんが、日本に来ていたことを想わせます。

また私が糸魚川にいたときにいろんな古代史の本を読んでいたところ、能登半島の穴水というところの宝達山(ほうだつさん)のふもとにモーゼの墓があることを知りました。糸魚川から近かったもんで行ってみたんです。

最初辿りつけなかったんですが、海岸側から行ったらすぐに辿りつき、キンキラキンの看板が立ってて、モーゼの墓とある。それで「三ツ子塚」って三つの小山があってその真ん中がモーゼの墓であると書いてある。右側が妻の墓で左が子供たちの墓。

周りにはパルテノン神殿のような横文字の書かれた石碑も建っている。外国人の方も観光に来られていた。

それで縄文中期くらいだと思うんですが、BC1000年、1500年あたり、かなり日本海を通ってそういった人たちが来ていた、また北のシルクロードを伝わって来ていた、そのあたりは詳しくないんですが、古代ユダヤ人には12支族あった。アッシリアにより滅ぼされ、残りの10部族は東方に逃げた。彼らは「イスラエルの失われた10支族」と言われていて行方が文書に残されていないんですが、どうやらシルクロードを伝わって何百年もかけて日本に到達していたのではないかという学者もいます。。

また、秦の始皇帝が滅ぼされてその一族が日本に逃げ込んで来たとき、たぶんそのルートは若狭湾だったのではないか。京都のお稲荷信仰、祇園の山車、あれはヘブライの戦車ではないかという説。また神輿(みこし)はヘブライ人が神殿で契約する時の「契約の箱」に似ているという説。

また徳島と高知の県境にある「剣山」。ここにソロモンの秘宝が埋まっているという説がある。ソロモンの秘宝とはアーク(聖櫃)と呼ばれる箱に納められた石版、つぼ、杖の3点で、これらが今もなお剣山に眠っているという。根拠として、剣山本宮例大祭が行われる7月17日は旧約聖書で重要な日と位置付けられることや、例大祭で用いるみこしの形や大きさがアークに類似しているのだそうです。現地にいる後輩を誘って行ったことがあります。(これに関するシンポジウムが2014年9月6日に徳島県つるぎ町の就業改善センターで開催されています)

それから高知商業高校の校歌「鵬程万里(ほうていばんり)」が不思議に満ちてるという話。タイトルも不思議だが、2番の歌詞には「天にそびゆる喬木(きょうぼく)を、レバノン山の森を伐(き)り、船を造りて乗り出でし、フェニキア人のそれのごと」と出てくる。フェニキアとは船の貿易民族。大きなレバノン杉の船に乗ってインドから盛んにいろんな土地の珍しいもんを持って渡来していた海の貿易商。たぶん縄文中期には日本海にたくさん来ていたと思われるわけです。

■日本になぜヘブライ人やフェニキア人が渡来してきたのか・・・

講演中の古屋氏講演中の古屋毅氏

さて話は飛びますが、私は弘前におりましたので、弘前は「ねぷたまつり」8月第1週。で青森は「ねぶたまつり」。「ねぷた」は出陣の山車が出るんですが非常にさみしい「出陣ねぷた」これから出陣していくんだと。青森は「凱旋ねぶた」飛んだり跳ねたり喜びをいっぱいに表し賑やかなんです。同じ津軽なのに「ねぷた」と「ねぶた」は全然違う。

弘前のあとは大阪の堺に4年くらいいて、そのあと最後に糸魚川に行き、これがとても意味のあるものになったわけです。能登半島、糸魚川、そしてフォッサマグナという日本列島の割れ目が糸魚川の町から姫川に沿ってあります。ここから東側は北アメリカプレート。そして西側(富山側)はユーラシアプレートに乗っています。

北アメリカプレートがユーラシアプレートの下に潜り込んでいる。ユーラシアプレートには北アルプスが乗っている。北アメリカプレートが下に潜ることで隆起したもの。今でも高度(標高)が少しずつ高くなっている。

北アメリカプレート側は海底火山の隆起で陸地ができている。この潜り込む摩擦で「ヒスイ」ができ、そしてヒスイ峡となる。実は昭和の初めころまではそんな貴重なものだと誰も知らなかった。昭和14年に初めて確認されるまでは、漬物の重しなどに使われていた・・。

ダイアモンドを10とするとヒスイは8、非常に硬い、このヒスイが最初は岩になって出てくる。川に出て洗われて、海へ出る。海で今度は細石(さざれいし)になって堅い部分だけが取れて海岸に上がってくる。これを古代人は輝く石として身に着けていた。

縄文中期、BC3000年から3500年ころ、ヒスイの工房跡というのが糸魚川にあるわけです。長者ヶ原遺跡、これはヒスイ文化でも世界最古ではないかと言われているわけです。

ヒスイの大珠は三内丸山(青森)で出土されています。これがさまざまな飾り物になり、出雲など様々な場所に行き、それを加工する職人が弥生時代からあとに出てくるわけですが、三内丸山にはすでに大珠があったということは、長者ヶ原遺跡には加工の工房跡があり、職人がいた。

そしてこの後紹介する火焔土器も信濃川中上流地域にしか出ないものになります。それにはこのあたりに石油ガスが取れることと関係があるんです。・・・

いよいよ本題に入ります。

火焔土器というのは、新潟信濃川中上流域に集中して出土する非常に在地性の強い土器。

縄文は最初前期からだったのが早期、草創期が出て、過去へ過去へ遡っています。というのは、土器を使うようになってからを縄文としていたのか、定住生活をし始めたところからを言うのか、学者の説は分かれているそうなんです。私は土器を使用するようになってからを「縄文」だと思っています。

日本最古の土器というのがあるんですが、紀元前14500年に第1号が出た。これは青森県からのもの(青森県大平山元Ⅰ遺跡の縄文土器)。最近は15000年前に新潟のあまのがわ付近で最古の土器が出てきたと小林達雄先生などが言っておられる。日本のみならず世界で最古のもの。

で土器というものがどうしてできたのか。それまでは旧石器時代、新石器時代、縄文人は新石器時代の人と同じなんですが、石器で道具を作っていたところ、そこに土器が入ってくるようになった。

粘土を火で焼くと土器になる。日本には火山がたくさんある。私の想像ですが、火山灰が粘土みたくなって、そこに火山の噴火で火山岩がドーンと落ちてくる。焼けた石が落ちてくると穴ぼこが空いて雨が降ってそこに水がたまる。あれなんだろうと拾い出すと、堅いものが出てくる。火で焼くと堅くなることを覚える。
火山がいろいろ教えてくれたんじゃないか・・。あるいは地に穴を掘ってそこへ焼いた石を置いて鋳物を作る、これも周囲が粘土質だったために堅いものが出来あがった。

こうした土器を活用するようになってからを「縄文時代」と言っているわけです。これがどんどん遡って15000年前まで行く。早期の前に草創期まで出来てしまった。

それまで狩り中心で移動していたのが、だんだん定住生活に変化していく。村を作る、そこにみんなが集まる。そこにスンダランド(現在のタイ・マレーシア・インドネシアが陸続きで平原だった)の水没によって住む土地を奪われた民族が、すぐ北の日本に移住したのではないかということが結びつく。これによって縄文文明の急な発生やモンゴロイドが太平洋沿岸域に一気に拡散した事も説明が付く・・。

氷河期が終わるころから水位が上がり始め、水没の兆候が出てみんなが中国大陸だなんだへ移動したのがモンゴロイド。モンゴロイドのほかにはコーカソイド、これは白人。ネグロイド、これは黒人。これらが別々の地域で生まれ、今ではそれらが交わっている。

スンダランドから逃げてきた人が日本に定着し始めたのが3万5千年前くらいではないかと言われています。彼らが土器の作り方を発見して縄文人になっていく。

北のほうから人は入ってきています。先日江戸東京博物館でこの20年の発掘されたものの展示を見て来たんですが、その中に、市ヶ谷で発掘された「新宿にいた縄文人」というものがあった。これが縄文時代の骨が発見されたんですが、DNAを調べるとこれは北方系であることが判明。シベリア方面から来た人類であることがわかったわけです。

さらに富山県で91体の人骨が発見、これは南方から来た民族のDNAを持っているし、北のシベリア方面からの民族のDNAも見られた。つまり、当時から民族は混在していた。要するに旧石器・新石器時代から日本列島にはそういった民族が混在して住んでいたということがわかります。

■石油が取り持ってくれた火焔土器との運命的な出会い

火焔型土器火焔型土器(国宝:新潟県十日町市笹山遺跡出土、十日町市博物館蔵)

そこで本題である火焔土器。

燃え上がる炎を象ったかのような形状の土器。非常に美しい器。これが昭和51年か52年に岡本太郎がフランスから帰国した際に、フランスで余り得るものがなく彼は悩んで帰って来た。その時に上野の国立博物館で火焔土器を見て、縄文の中期にしてこんな躍動美にあふれた素晴らしい造形美があったんだと開眼し、縄文芸術論(縄文土器論)を語るようになるわけです。

「激しく追いかぶさり重なり合って、隆起し、下降し、旋回する隆線文、これでもかこれでもかと執拗に迫る緊張感、しかも純粋に透った神経の鋭さ、常々芸術の本質として超自然的激越を主張する私でさえ、思わず叫びたくなる凄みである。」
岡本太郎著「みずゑ」1952年2月号「縄文土器論」より抜粋

日本人の素晴らしさ、縄文人の素晴らしさ、造詣の素晴らしさ。彼はこの火焔型土器のような淵に模様が付いた土器というのは、津南町や十日町市付近の狭い領域で短期間(100~150年間)作られたものであると説明するようになる。けっして、大陸のまねをしているのでもなければ、日本中に単一な文化があったわけではないと主張されています。

そんな中、私が何で「火焔型土器」と出会ったかというと、平成10年のころ、信濃川の上流のほうへ行く町おこしツアーがあったので、それに参加しました。そのとき、津南町の町長さんが火焔土器のレプリカをみんなに見せてくれたんです。その際私の手に回って来た時、ああこれは石油の効率のいい燃焼器ではないかとパッとひらめいたわけです。

現在の新潟市長の森民夫さんが建設省の役人だったころ、当時から長岡市長選に出ると言っていたんですが、十日町や津南町(つなんまち)は信濃川上流のほうの町、長野県に行くと千曲川。そんな環境の中で、新潟と言えば石油だ。私自体が石油屋ですから・・・。

同じ新潟の会に十日町の関係の方がいらっしゃって、十日町にも行ってみた。すると火焔土器を始め様々な土器がありました。

器を見ているうちに、なんとなく内側にうっすらとすすがあるのが見えた。倉庫にあるものも見せていただいたところ、破片も含めて大小様々な土器がうぁっと並んでいるんですが、みんなうっすらとすすが付いていた・・・。

これを見て、動物油などを使った場合にはすす以外にカスも付くから石油系のものであろうと考えました。すすの目の細かさもありました。

それで森民夫さん、そして小林達雄さん(國學院大學文学部名誉教授、長岡の歴史民俗博物館の名誉館長でもある、森さんとお互い長岡高校の先輩後輩で、仲が良い)が登場・・・。

私が火焔型土器で石油を燃やしていたんじゃないかと言い出したところ、森さんが小林さんに話をしようと連れて行って下さった。それで私は急きょA4レポート用紙3枚の資料を作成して持って行った。ところが小林さんには「素人がなにを言うか、あれはその模様のせいで黒くなっているだけなんだ」と資料をパーっと放り投げられたわけです。めちゃくちゃ悔しかった・・・。

新潟の埋蔵文化センターにも行きました。火焔土器について話をすると、石油をアスファルトを溶かして矢じりの接着剤に使ったとかいうケースは見られる、これは新潟にも秋田にも残っている、ですが石油を燃したという説は古屋さん初めてですよと言われました。

そこで、その足でさらに「出雲崎石油記念館」にも行ったんです。なんとここで運命的なこと「火焔土器が出土した場所は石油ガス田の場所と一致する」ということを発見しました。

火焔型土器は信濃町以外でも出土しているんですが、主として信濃川中上流域で集中して出土しているわけです。そこにガス田があった。長岡市郊外の関原町。こういったことを指摘したところ、館長がびっくりしちゃいまして、やっぱり土器と石油は関係あるんだとなったわけです。

■火焔土器はなぜあの形状になったのか、使い道は・・・

講演中の古屋氏講演中の古屋毅氏

私の想像はこうです。

火焔型土器は石油ガス田と密接な関係がある。石油ガスにもいろいろあるんですが、液化天然ガス、インドネシアなどから運んできていますが、天然ガスを-162℃以下に冷却して液体にしたもの。体積が600分の一になる。比重も軽いので運搬に便利。しかし地上に吹き出すと600倍になるわけです。

ちなみに石油は炭素と水素がいくつにも組み合わさった化合物。天然ガスはCが1つにHが4つついてメタン(CH4)、非常に揮発性が高い。Cが2つになるとエタン(C2H6)、Cが3だとプロパン(C3H8)。これらが地上に出ると体積がぶぁーっと膨張するわけです。

そこで僕は関原ガス田(当時帝国石油が石油ガスを採掘していた場所)が長岡市郊外の関原町の馬高遺跡の真下にあることに気が付いて、これは帝石(帝国石油)だなって、当時烏山に研究所があったのでそこを尋ねたところ、関口さんという当時の次長さんが「古屋さんに先を越されました、我々が知っておかねばならないことだ。」とおっしゃった。

この帝国石油の応接間の棚には液化ガスのサンプルがありました。ガス田からガスが吹き出すと液状化した重い部分も一緒に吹き出すんですがこれを「コンデンセート」といいます。これも石油の化学原料の一つなんですが、私も当時中東からコンデンセートを相当な量を輸入していました。

このコンデンセートを縄文人は燃やすことを知り、火焔土器で燃やしていたのではないかという仮説が成り立ったわけです。

そして何をあと研究すればこの仮説が立証できるかとなり、火焔土器に残ったススが石油であるかどうかの分析と、もし地殻変動で亀裂が出来てばぁーっと吹き出したのだとすれば、活断層がその地区にあるかどうかだと関口所長からヒントをいただいたわけです。

十日町のほうはいつでも分析くださいと許可いただいたんですが、その直後に国宝になってしまい、なかなかお借りすることが難しくなりました。その上、昭和シェルの新潟分析試験所(新潟製油所の試験室)では、ススだけを分析しても石油かどうかはわからないと言われてしまいました。でもこの時点で、私は縄文人がコンデンセートを使っていたことは間違いないと確信していました。

その後この地域を震源地として「中越地震」が起こるわけです(2004年)。長岡市から小千谷市など広範囲にわたって震度6を記録。そのときよくこのガス層に亀裂が入らなかったと思いました。亀裂が入っていたら大火災が起きていたはず。でもこの地震で長岡市郊外に活断層があることは(完全に)証明されたわけです。

コンデンセートを縄文人がすでに発見していた。馬高遺跡の後ろのほうにちょっとくぼんだ所があるんですが、このあたりからガスが噴き出していたんじゃないかと想像はぐるぐると巡っていきます。しかしそのへんで、私は(想像は膨らむものの)行きどまってしまいました。

コンデンセートを燃やしたに違いない、火焔土器の形も美しい、そればかりが独り歩きしているだけで、用途がなんであったかとか、この形である意味だったりなにかいまいちピタッと結びつくものが見つからないまま時は過ぎて行ったんです。ところがおととし(2012年)ふっとしたことからそれらのことが一挙に解決してしまったんです。

■そして火焔土器の謎に到達した・・・

先ほど言った「長者ヶ原遺跡」ヒスイの工房跡がある縄文中期の史跡、ここから一つだけ火焔型土器が発掘されています。それを藤巻さんという彫刻家が火焔型土器のモニュメントを作られ、現在、美山のフォッサマグナミュージアムの長者ケ原考古館の入口に飾ってあるわけですが、地元の郷土史家の土田孝雄先生の解説によれば、あの火焔土器は(当時の縄文人が)プレゼントされたものではないかと言っておられ、そのプレゼントという言葉からピンと来たわけです。

形が美しい土器でプレゼントしたものは(馬高遺跡からはるばると運んで持ってきた)「燃える水」だったのではないか。

つまりあの火焔土器の独特な形状は、「口に入れてはいけませんよ」と言う識別と警告を鮮明にするための土器表現だったのではないか。

普通の飾りのついた土器は飲み水とか水差しに使ったり食べ物に関係ある場所で使うもの。ところがこの派手な形状は「燃える水(コンデンセート)」が入っているという意味をあらわしている。もし火が付いたら大変なことになる、おそらくこの水を火のそばで扱っていても燃え点くことがわかっていた。もしひっくりかえって囲炉裏の火でもあろうもんなら縄文人の藁ぶきの家屋はすぐ燃えていただろう、あるいは大やけどを負う。そんな経験からこの形状が生まれたと確信したのです。

そのことを2年前の「東京糸魚川会会誌第36号」に発表させていただいたわけです。(文末リンク参照)

この火焔土器は2~300年で忽然と姿を消すわけです。その理由はやがてガスも枯渇してしまい、燃える水も地上に湧き出てこなくなったから。だから、燃える水を入れる器を作る必要もなくなった・・・。火焔土器は富山でも出土されています。糸魚川でも・・・。それぞれ珍しいものをプレゼント、それが燃える水であり、器がそれぞれの地域に残ったというわけです。

最後に残った疑問・・・。では(燃える水は)何に使ったのか、私はそれは「お弔い」(葬式)だと考えています。

当時は生命を大事にしていた。人が死んだ時、黒い煙が天まで昇っていき、魂が安らかに天に召されるように。用なしになった土器は墓に埋める。ですから壊れた火焔土器がたくさん出土される理由も納得がいく。

そういう思想は例えば能登半島に「真脇遺跡」というのがあるんですが、イルカの骨が大量に出土したりする場所なんですが、そこに巨木(高さ2.5メートルの彫刻柱)があったんです。また糸魚川にも「寺地遺跡(てらじいせき)」ここにも巨木を建てていたとされる穴が残っている。三内丸山にも巨木が6本、これらすべて天に通じる祈りの場であったとされているわけです。金沢の「チカモリ遺跡」にも環状木柱列が復元されている。すべては天に通じるという思想の現れだとされているわけです。

■古代史の研究を社会に活かす・・・

懇親会の様子懇親会の様子

最後になりましたが、火焔土器をオリンピックの聖火台にしようという活動についてお伝えしたいと思います。

先ほど紹介した小林達雄先生が読売新聞で語ったインタビューの中に、自分の願いとしては2020年東京オリンピックの聖火台を火焔土器の姿にすることだ、そこで火焔土器を世界に発信しようじゃないか、小林先生や森長岡市長はすでに大英博物館などに火焔土器を寄贈するなど世界への発信を常にしておられますので、そんなノリなんだと思いますが・・・。

その記事を見て私が「これは素晴らしい発想だ・・」と手紙を書いたところなんと、小林先生の活動拠点である「ジョーモネスクジャパン」(文末リンク参照)の機関誌に私の手紙が掲載されてしまった・・・。さらには長岡の森民夫市長がオリンピック関連の委員会の顧問のような役職にも就くということで、私も含めて大いに実現させたい活動になっています。

というわけで、古代史を研究するうちに火焔土器にのめり込み、一つの結論にまで到達できたという歴史追跡の物語でした。ご清聴ありがとうございました。(まとめ:土屋夏彦 ’80理電)

参考リンク)
火焔土器の謎に迫る
http://www.ac.auone-net.jp/~koba-bin/kanto-essay-1304-furuya.html

ジョーモネスクジャパン
http://jomonesque-japan.net/


■古屋毅(ふるやたけし)
1934年東京生まれ。1957年上智大学経済学部商学科卒業。同年、シェル石油(株)入社。主に営業部門に所属。転勤、出向などで全国各地に勤務。1999年11月、新潟県糸魚川勤務を最後に退職。在職中の1986年ころから興味を持ち研究を続けてきた「日本の8世紀以前の古代史」を、退職後本格的に取り組む。2000年3月より「古代史を語る会」主宰。


■マスコミ・ソフィア会・紀尾井の森カルチャー倶楽部について

上智大学は、今年創立100周年を迎えます。マスコミ・ソフィア会も1988年の発足以来四半世紀の大きな節目の年であります。そこでこの度、これまでの母校発展のための活動に加えて私ども培ってきた知恵や力を分かち合おうと、会員、上智大学関係者はもとより、広く近隣のみなさまにも参加いただける「マスコミ・ソフィア会紀尾井の森カルチャー倶楽部」を開校することに致しました。

現在の約1000名のマスコミ・ソフィア会会員は、マスコミを中心に、いずれも様々な分野で偉業を成し遂げてきたツワモノぞろい。ツワモノらの貴重な体験談や生の声をお伝えすることで、少しでも皆さまの人生のお役に立てればと考えました。

毎月1回、四ツ谷の上智大学ソフィアンズクラブ(聖イグナチオ教会横)にて開催して参ります。マスコミ関係、上智大学関係以外の方でも、どなたでも参加できます。