▶戦後70年を機に「学徒動員体験」を語り継ぐ機運高まる!(編集室)
▶再び母校ソフィアの校歌を謳えず戦死した学友を悼む(香川節 1945文史)
▶《追悼》戦闘機でB29に体当たりした学徒動員上智大学生(江副隆愛 1947文史)
▶長崎に原子爆弾を投下したB29を見上げていた(故 石井恭一 1948経経)
▶あとがきにかえて:終戦が半年早ければ(磯浦康二 1957文新)
<戦後70年を迎えて>はじめに・・・
今年は戦後70年、人の一生と同じ位の歳月が過ぎた。1931年(昭和6)の満州事変から始まった「アジア・太平洋戦争」は1945年(昭和20)8月15日まで15年間続いた。この間に軍人250万人、空襲などで民間人60万人、計310万人が犠牲となった。敗色濃くなった昭和18年、学徒動員が始まり特攻隊員など多数の学徒が犠牲となった。
上智大学からも多くの学生が戦地に赴き犠牲者も多いが、その記録などは整備されておらず、体験者は高齢化している。90歳を超えた学徒動員の体験者の大先輩を中心に、改めて体験を語り継ごうという機運が高まり、ソフィア会も戸川宏一副会長を中心にサポートの具体案について検討を行っている。負け戦を国民に隠し、戦争を無理に続行し多数の若者の命を犠牲にした「特攻」とは何だったのか?当時の若者の思いは?そして当時の軍の指導者は何を考えていたのか?私たちは戦後70年を機に、後世に伝えるため上智大学出陣学徒の声を集めて記録に留めることとした。
1945年1月、学徒動員による水戸陸軍航空通信学校召集尉官生卒業式
<戦後70年を迎えて>学徒動員体験者の証言
満20歳の上智大学学生が徴兵検査を受け陸海軍へ入営・入団
マスコミ・ソフィア会まとめ(資料提供・中島重行氏 1944専新)
東条英機内閣は、戦局悪化により在学徴集延期臨時特例(文科系学生に対する徴兵猶予特典の停止)を制定し、1943年10月2日勅令を公布した(いわゆる学徒動員令)。これにともない満20歳に達した上智大学学生は徴兵検査を受け、12月早々に陸海軍へ入隊することが決まった。この第1回学徒兵入隊を前にした1943年10月21日東京の明治神宮外苑競技場では、東条英機首相出席のもと出陣学徒壮行会(文部省主催・陸海軍他後援)が開かれた。これには、上智大学学生を含め関東地区の入隊学生を中心に7万人が参加した。壮行会の様子は、(財)日本放送協会(NHK)が2時間半にわたり実況放送した(YouTubeで見ることができる)。学徒出陣によって陸海軍に入隊した学生は、陸軍の幹部候補生・特別操縦見習士官・特别甲種幹部候補生や、海軍の予備学生・予備生徒として、戦場の指揮官クラスの下級将校や下士官になった。さらに1944年10月には徴兵適齢が20歳から19歳に引き下げられ、学徒兵の総数は13万人に及んだ。
1943年10月、専門部新聞学科学生全員入隊を前に記念撮影
(後列左より4人目:故・マスコミ・ソフィア会・濱口浩三会長・元TBS社長)
(前列左より4人目:中島重行氏)
1944年11月、訓練中の水戸陸軍航空通信学校召集尉官生と特別操縦見習生たち
(後列右より2人目:中島重行氏)
<戦後70年を迎えて>再び母校ソフィアの校歌を謳えず戦死した学友を悼む
香川節(1945文史・学徒動員陸軍東部第十七部隊)
香川節氏
私は1941(昭和16)年4月に上智大学予科に入学した。同年12月8日に対米英開戦。当初は好調に見えた戦局は1942年6月から中部・南太平洋の作戦が不利になる気配で、予科の課程が2年から1年半に短縮された。私は文学部史学科に進学し、1944年9月までは授業を受けられたが学徒勤労動員令が出て10月からは「上智大学勤労報国隊」として工場に動員された。そして、1945年6月20日、私もとうとう陸軍に入隊する命令書を受けた。そして6月27日東部第十七部隊に入り、広島市東郊の八木松に出動した。もはやドイツも降伏して、日本だけが連合国の包囲に遭い、沖縄周辺では特攻戦術(片道だけの燃料と爆弾を積んだ飛行機で、敵の軍艦に体当たりする自殺戦法)など、苦しい抵抗を続ける戦争末期である。
8月6日には広島に米軍の残虐極まる原子爆弾を落とされて、私もそのショックを受けたのであるが、それが戦争終結の最終的契機となることはご承知の通りである。
9月20日に復員し、無事東京立川の自宅に帰れたが、一週間後に上智大学の卒業式を焼け残った校舎の事務室で、卒業証書を総長代理の吉安健吉先生から受けて、ともかく文学士となったのである。そのときはたった5名の学生が参集したものであった。やがて、私は土橋八千太先生からお勧めを受けて、上智大学図書館に勤務することになり、他所に疎開してあった図書を元に戻したり、また米国など海外から新着する図書を受け容れ、分類して配架したりする作業を一年間続けたのである。
敗戦から、すでに70年を過ぎた今、ともあれ平和日本に安住している。今の母校の教授、学生たちは、もう全くあの大戦の実態を知らないであろう。遠い昔のお伽噺のように感じられるかも知れない。しかし、ソフィアの校歌を謳った学生たちの何十人かが、あの大戦で戦死して、再び母校に戻ることが出来なくなったという事実を、厳粛に考えて欲しいと思う。
私たちの世代は、死線に追いやられ戦争の悲惨さ、反道徳性をイヤという程知っており「絶対に戦争をしてはならない」と心から念じている。
今、予科生のとき、同級だった河野敬(誉之)君の壮烈な特攻戦死を悼みつつこの一文を記す。
<戦後70年を迎えて>学徒動員体験者の証言
《追悼》戦闘機でB29に体当たりした学徒動員上智大学生
江副隆愛(1947文史 学徒動員海軍航空兵・現新宿日本語学校学園長)
江副隆愛氏
戦後70年を迎え、戦闘機でB29に体当たりした学徒動員による上智大学生がいたことを知った。河野敬少尉(昭和16文哲入学、陸軍航空兵で昭和20年4月7日東京上空B29を撃墜して戦死)です。
今でこそ、私たちの過ごした時代を軍国主義にまぶされた暗い時代と言われますが、それを生きた私たちにも、青春という時代がありました。
河野敬少尉の戦死を報じた昭和20年5月7日付毎日新聞
私たちは突然戦争に引きずり込まれたのです。それまで日本を仮想敵国として周到に準備していたアメリカに無謀な戦いを挑んだのです。それまでは不意打ちで得た勝利でした。緒戦の華々しい戦果に酔いしれたまま、勝利の夢がほころびにほころんでも、国民の殆どは“われ関せず”だったのではないでしょうか。
これではならぬと立ち上がった若者たちがいます。海軍で言えば、第13期飛行予備学生、陸軍で言えば、陸軍特別操縦見習士官第1期生に応募した大学生たちでした。
彼らは親に隠れて応募しています。親に言えば「なんでそんな危険な飛行機乗りにならねばならぬのか」と、反対されるに決まっていたからです。現在の若者たちには想像もつないかもしれませんが、その頃の私たちは、自分を若侍ととらえ『武士道といふは死ぬ事と見付けたり』を金科玉条としていました。死に場所を与えてほしかったのです。
震天制空隊に属した河野敬少尉の心中もそうであったに違いありません。一機一艦を屠るのも、B29を叩き落とすのも、当時の特攻隊員にとっては、掛替えのない死に場所だったといえます。河野少尉と同時に飛び立ち、他のB29に体当たりした古波津里英少尉は落下傘降下を試み、九死に一生を得ています。河野少尉にも、体当たりの瞬間に、命があって操縦席から落下傘を外す機会はあったかもしれません。しかし、死に場所を得た河野少尉は、歌っていたかもしれません。特攻隊がよく口ずさんだ“五木の子守歌”を。
♪ おどま盆ぎり 盆ぎり 盆から先や おらんど……
海軍甲種飛行予科練習生募集のポスター
(国立歴史民俗博物館展示より)
<戦後70年を迎えて>長崎に原子爆弾を投下したB29を見上げていた
故 石井恭一(1948経経・学徒動員陸軍高射砲部隊)
B29アメリカ戦略爆撃機(国立歴史民俗博物館展示より)
戦争末期、おそらく私は、クラスの中で一番最後になったのではないかと思いますが、大分の軍隊に入りました。長崎、大分県の本籍地をもった少年兵、約50名が長崎に集められ、長崎を取り巻くように高射砲部隊が5つ、6つあったのですが、私は一番右の方の三菱造船所の後ろの高射砲隊に配属されました。これが命拾いになったわけです。
ご承知のように8月9日、B29は原子爆弾を積んでまず小倉に参りました。原子爆弾を積んで小倉の上空に行きましたら、小倉は雲がずっとかかっていて、原子爆弾の投下の際に下が見えない。投下するに際しては、「必ず投下するのを目撃し、爆発するのを目撃せよ」そういう命令があったわけです。
それで小倉をグルグル回ったのですが、とても雲が厚くて、命令どおりの投下ができない。それで第2目標の長崎へ参りました。ところが当時、長崎の上空は幅5キロ、長さ20キロの雲が覆っておりました。で、B29はそこまで来るのに燃料がいっぱいだったのです。もう、これは長崎は、一遍上空を通過するしかない。原爆を投下するか、しないかは1回しか機会がない。だめなら、そのまま基地に帰るというところまで進んできましたから、爆撃士が機長に「右前方に市街地が見えます」というので、そちらの方に変進してくれと言われました。確かに前方を見ますと、雲の切れ目からちょうど市街地が見えたのです。それで「これしか機会がない」というので、機長がそちらの方にB29を変進しまた。それで原子爆弾を投下いたしました。そして急激に左旋回をしながら雲から出た。それをちようど私は下の高射砲隊から見上げておりました。その距離が、まっすぐに来たら、おそらく私は20歳の人生を終えていたと思うのですが、斜め右に進路を変えましたので、爆心から5キロになりました。そのために非常に熱風と強烈な爆風は受けたのですが、幸い命を取り止めました。しかし、私はそれを運がよかったとは思っておりません。私が命拾いをしたとき、5キロ離れたところでは7万、8万の方が命を落としておられたので、これは自分が運がよかったということはとても言えないと思っております。
(元社会福祉法人ラ・サール会理事長、第14回コムソフィア賞受賞記念講演より抜粋、「コムソフィア」第48号より)
<戦後70年を迎えて>上智大学出陣学徒戦没者名(敬称略順不同)
下中 達郎 昭和16年12月商学部商学科卒業 昭和20年5月、戦死
大国 武夫 昭和16年12月商学部経済学科卒業 戦死
吉岡 正人 昭和17年9月文学部哲学科卒業 戦死
石津 泰 昭和17年9月商学部商学科卒業 戦死
小田 昌之 昭和17年9月商学部商学科卒業 戦死
沢原 鴻 昭和17年9月商学部商学科卒業 戦死
関口 芳男 昭和17年9月商学部経済学科卒業 戦死
鈴木 信男 昭和17年9月商学部経済学科卒業 戦死
楠 剛太 昭和18年9月文学部英文学科卒業 昭和19年、外地南方戦死
大池 達夫 昭和18年9月商学部商学科卒業 昭和20年、戦死
太田栄次郎 昭和18年9月商学部商学科卒業 昭和20年4月、南西諸島方面で特攻戦死
三箇 三郎 昭和18年9月商学部商学科卒業 昭和20年4月、藤沢基地で戦斗812飛行隊にて殉職
清水 育夫 昭和18年9月商学部商学科卒業 昭和19年11月、台湾北西海面にて戦艦金剛乗組雷撃戦死
陣内 敬 昭和18年9月商学部経済学科卒業 昭和19年、戦死
北崎 暹 昭和18年9月商学部経済学科卒業 昭和19年10月、比島東方海面飛行中戦死
恩地 昌郎 昭和18年9月商学部経済学科卒業 昭和20年8月、厚木海軍工廠銃撃戦死
時田 行郎 昭和18年9月商学部経済学科卒業 昭和21年、シベリア抑留中病死
新保 弘 昭和18年9月専門部商学科卒業 昭和20年2月、カムラン湾で海防艦野風艦上にて戦死
伊東宏一郎 昭和19年9月商学部経済学科卒業 学徒出陣昭和20年4月、東京湾上空戦死
黒井 清達 昭和19年9月商学部経済学科卒業 学徒出陣昭和20年2月、マニラ東方アパリ近郊にて戦死
横川 亮 昭和19年9月商学部経済学科卒業 学徒出陣昭和19年、マニラ近海にて戦死
大江桂一郎 昭和19年9月専門部経済学科卒業 学徒出陣昭和20年4月、比島にて戦死
清水 政周 昭和19年9月予科終了 学徒出陣昭和20年5月、戦死
前田 久雄 昭和20年9月文学部独文学科卒業 シベリア抑留中死去
河野 敬 昭和21年文学部哲学科卒業相当 学徒出陣昭和20年4月、川口市上空戦死
松本 光憲 昭和21年文学部独文学科卒業相当 学徒出陣昭和20年5月、西南諸島方面特攻戦死
武井 満 昭和21年商学部経済学科卒業相当 学徒出陣昭和20年5月、西南諸島方面特攻戦死
島谷彰一郎 昭和21年経済学部商学科卒業相当 学徒出陣戦死
大溝 徹郎 昭和21年文学部史学科卒業相当 学徒出陣戦死
桜井 織馬 昭和21年経済学部経済学科卒業相当 学徒出陣戦死
藤堂 藤松 昭和21年経済学部経済学科卒業相当 学徒出陣戦死
大橋 清明 昭和22年経済学部経済学科卒業相当 学徒出陣横須賀武山学生隊にて殉職
森 荘一 昭和22年経済学部経済学科卒業相当 学徒出陣昭和20年4月、比島クラークフィールドにて戦斗804飛行隊で戦死
この名簿は1993(平成5)年発行の『上智大学創立80周年記念ソフィア会名簿』上巻掲載のもので、昭和16年12月~昭和20年3月卒業生とこの間に在学していた就学諸兄で、調査委員会で特定できた方のお名前のみを記載したと注記されています。掲載された以外に上智大生の戦没学徒についての情報のある方は、マスコミ・ソフィア会(info@cumsophia.jp)にご連絡ください。
<戦後70年を迎えて>終戦が半年早ければ
磯浦康二(1957文新)
諸先輩の戦時中の体験記を読み、改めて70年前の悪夢がよみがえり胸が一杯になる。★当時私は、夜はゲートルを着けて眠り、空襲警報のサイレンで飛び起き防空壕に入る毎日だった。昭和20年4月13日夜、B29爆撃機500機に襲われ焼夷弾が雨あられと降り注ぐ中を逃げ惑う。東京は一面の焼け野原、黒焦げの焼死体があちこちに転がっていた。★日本の敗色が濃厚となった昭和20年2月初旬ヤルタ会談が行われ、ソ連のスターリン首相は「ドイツが降伏した3ヶ月後に日本に対して参戦する」とアメリカのルーズベルト大統領と密約を交わした。ストックホルム駐在武官の小野寺信少将は、早くも2月中旬にこの情報を察知し東京の陸軍参謀本部に打電した。しかし参謀本部は何故か握りつぶす。その後7月、日本政府はソ連に戦争和平仲介を依頼しようとして断られ、まるでマンガのような事態を招く。★軍事機密を盾に負け戦を国民に隠し、神風が吹くと唱えて漫然と戦争を続け、昭和18年「学徒動員」を行う。当時の高級参謀や日本の職業軍人は有為の若者を戦場に駆り立て多くを死なせた。特攻隊の指揮官たちは「俺も後に続くぞ!」と言いながら結局誰も飛び立たなかったという。★特攻隊の建前は「志願」だが実態は「命令」だった。「武士道と云(い)ふは死ぬこととみつけたり」を「葉隠」から抜き出して利用。私たちの年代は生まれた時からアジア太平洋戦争(15年戦争)が始まっていたため「天皇陛下のために死ぬことが国民の義務である」と徹底的に教育され、当時は疑問に思わなかった。★特攻で戦死した先輩たちの心情を思うと涙が止まらない。そして当時の軍への怒りがこみ上げてくる。もし半年前の2月中旬に戦争を止める動きがあれば「東京大空襲や全国の都市空襲」も「原爆投下」も「沖縄の激戦」もなかった。戦争指導者は敗戦責任をどうとったかを問い直すことが必要だ。
以上