■講演テーマ:日本経済「失われた20年」の軌跡 ―経済報道の第一線で考えたこと―
■日時:2015年4月16日(木) 18:30~21:00
■場所:ソフィアンズ・クラブ
■講師:川口雅浩(かわぐちまさひろ)さん(’87年文学部ドイツ文学科卒)
   毎日新聞グループHD内部監査室委員(社長室委員)
■参加者数:30名
※この講演録は当日の同録音声から主要な箇所を文章に書き起こし加筆・修正したものです。

▼プロフィール
1964年静岡県沼津市生まれ。87年静岡新聞社入社、92年に毎日新聞社へ移る。同社経済部で経産省、外務省、財務省、総務省、農水省、日銀、財界、エネルギー、金融・証券、情報通信などを担当。大阪本社経済部デスク、東京本社経済部編集委員を経て現職。共著に『日本の技術は世界一』(新潮文庫)、『破綻 北海道が凍てついた日々』(毎日新聞社)など。

川口さんは、97年日本初の都銀破綻となった北海道拓殖銀行の経営破綻を札幌の毎日新聞社北海道報道部で経験されました。99年に東京本社経済部の記者となってから、「失われた20年」と言われるバブル崩壊後の日本経済を取材してこられました。生保の破綻、銀行再編、日銀の量的金融緩和、小泉構造改革、民主党への政権交代、アベノミクスなど、経済部記者として取材した経験や裏話を、今夜は本音ベースで三水会のみなさんにお話ししていただきます。

正面写真RIMG12844川口雅浩氏

▼今でも忘れない北海道拓殖銀行の経営破綻

ご紹介に預かりました川口です。私は大学卒業後、郷里の静岡新聞社に1987年に入社、静岡で5年記者をやりました。静岡新聞では社会部、蒲原支局と周り、最初はサツ回り、事件・事故から裁判、町ネタから高校野球やサッカーなどのスポーツ、選挙と、新人記者が経験すべきものは地方紙記者として経験しました。

そして1992年、経験記者採用という、いわゆる同業他社からの「引き抜き」で、28歳の時、毎日新聞社に移りました。毎日新聞では最初、北海道報道部で千歳に2年、札幌に4年いました。その時、経験したのが、1997年の北海道拓殖銀行の破綻です。日本では戦後、初めての都銀の経営破綻でした。その後、私は99年から東京本社の経済部に行って今日に至るわけなんですが、今振り返っても、1997年の拓銀の破綻は決して北海道ローカルの話ではなく、その後の日本経済にいろんな教訓や影響を残した事件だったと思います。

バブル崩壊後の日本経済の低迷を、よく「失われた20年」などと言いますが――正確にはもう二十数年ですが――、今日はまず、私が北海道報道部で経験した1997年、日本で初の都市銀行の経営破綻の実例を基に、「失われた二十数年」を私なりに振り返りたいと思います。

▼日本経済のターニング・ポイント―記憶すべき1997年

1997年という年は、日本経済のいろんな意味で分岐点、ターニング・ポイントになった年だと言われています。バブル崩壊後の金融危機が起こった年で、現在まで続く長期デフレは翌98年からですが、いろんな経済指標が97年を境に急激に悪化していきました。

まず賃金水準のピークが97年、名目GDPのピークも97年で、98年から低下が続きます。消費者物価の下落傾向は99年からですが、完全失業率が悪化し、非正規労働者の比率が増えるのも97年以降です。いろんな意味で97年はターニング・ポイントでした。一言で言えば、この97年の金融危機で日本経済はおかしくなり、デフレになった。で、政府は未だに「デフレ脱却宣言」をできない。

そのデフレですが、これは偶然ではなく、いろんな要素が重なって、97、98年から始まったと考えられています。もちろんデフレにはいろんな要因があって、「デフレの正体」を書いた藻谷浩介さん的に言うと、生産年齢人口(15~64歳の人口)が95年をピークに減少していることが、まず構造的要因としてあると思います。総人口のピークは2008年ですが、それよりも前から、最も購買力のある生産年齢人口が減っていったということです。

もちろん中国からユニクロのように大量の安い製品が輸入されるようになったということも影響したでしょう。金融機関は不良債権を抱え、事業会社や個人から見ればバブル期に借りた借金、負債を抱えて、みんなが借金の返済を急いでいました。これもリチャード・クーさん的に言えば、借金を返すことはよいことだけど、合成の誤謬で、みんなが一斉にやるとどうなるか。銀行には借金が返済されてくるが、新しい借り手が見つからない。企業は設備投資をしない、だから銀行は民間にカネを貸すことができず、仕方ないので国債を買って運用するという困った状況になっていた。

オープニング 佐藤幹事挨拶RIMG12848オープニングの様子

▼ダブルパンチだった消費税アップとアジア通貨危機

97年はこれらに加えて、まず97年4月に消費税率が3%から5%に上がりました。97年7月2日にはタイの通貨バーツが変動相場制に移行し、アジア通貨危機が始まりました。インドネシア・ルピア、韓国ウォンが下がり、特に韓国はたいへんな危機になりました。それでなくても日本は不良債権処理で消費が減退しているところに消費税が上がり、アジア通貨危機で金融不安が広がりました。

恐らくそれらが重なりあって、日本では97年11月にたいへんな悲劇が立て続けに起こります。まず11月3日に三洋証券が破綻し、17日に拓銀、そして24日に山一證券が破綻しました。山一證券は昔、女優の田中美佐子さんがCMやってましたね? YouTubeで「倒産企業CM」で検索すると出てきます。

▼札幌で体験した「戦後初の都市銀行破綻」の現場、広まっていた「拓銀が危ない」という噂

では、なぜこの時期に破綻したのか?

これは拓銀を例にわかりやすく話しますと、拓銀はバブル期の融資で不良債権が増え、株価が下落していました。株価は市場の評価です。拓銀破綻の発表は17日の月曜日でしたが、その前の週が実はたいへんなことになっていました。

金融機関は金融機関同士でコール市場というところで資金の貸し借りをします。これは無担保で、オーバーナイトと言って、「借りたら一晩で翌日返す、呼べばすぐ借りられて、すぐ返す」という意味で「コール市場」と言うそうですが、拓銀は破綻の前の週、特に14日の金曜日はコール市場でその日の資金を調達できなくなった。要するに「拓銀は危ない」という噂が市場関係者の間で広まっていた。従って、銀行としても拓銀にカネを貸したら戻ってこなくなるかもしれないというんで、貸せなくなる。

これは後で聞いた話ですが、札幌市内でも取り付け騒ぎに近いことがあったそうです。「拓銀が危ないそうだから、預金を引き上げた方がよい」と。そこで、あるおばさんが前の週の木曜日か金曜日かわかりませんが、拓銀に言って「解約したい」と言ったら、銀行窓口のお姉さんが目に涙をいっぱい浮かべて、「お願いですから、もう少し待ってください」と言った。解約に行ったおばさんは、何だかわからないけど、泣かれて待ってくれと言われたんで、そのまま家に帰った。そしたら、翌週の月曜日に拓銀が破綻したと。

ですから、このおばさんは恐らく拓銀関係者の周辺から、噂とはいえ、確度の高い情報を入手していたことになります。

▼なぜ拓銀は破綻したか?

もうひとつだけ分かりやすい例を挙げれば、昔、首都圏はじめ全国で有名な宝石店チェーンがありました。この宝石店は民事再生法の適用を申請して経営破綻しました。昼間はテレビであまりCMを見ないけれど、夜中になると、やたら派手なCMをやる。大昔はファラ・フォーセットが出てました。しかし、ある時から派手なCMもあまり見なくなったと思います。

そこのメインバンクが拓銀でした。この宝石店は拓銀と親密で、バブル期に拓銀から融資を受けて、全国展開し急成長したんですが、バブル崩壊後に経営が悪化して借入金が返済できずに、拓銀にとっては不良債権となっていきました。要するに、拓銀は「この会社は大丈夫」と思って貸したカネが戻ってこなかった。それは洞爺湖の大型リゾートホテルなどもそうで、今考えると「どうしてそんな危ない融資をしたのか」と思いますが、不動産バブルの時代に拓銀は他行との競争の中で、危ない企業にまでカネを貸してしまい、結果的に失敗しました。

▼スクープ出来なかった北海道拓殖銀行の経営破綻

拓銀の情報管理も徹底していました。北海道知事も当日朝まで、拓銀破綻は知らされず、どこの新聞も抜けませんでした。17日夕刊で一斉に同着。でも日銀は日曜日の夜のうちに北海道内の拓銀の全支店に現金を輸送しているので、拓銀幹部や日銀幹部をはじめ、現金輸送の実務に当たった人たちは月曜日の破綻を知っていたはずです。あるいは知りうる立場にあったが、どこにも漏れませんでした。

▼その結果、どうなったか?

私は都市銀行が破綻すると、経済がどうおかしくなるかというのを、この眼で目撃し、体験しました。まず、連鎖倒産です。私がビールを買いに行っていた安売りのリカーショップはすぐにつぶれてしまい、「閉店」の張り紙がありました。非常に象徴的だったのは、コンビニのレジにおじさんが増えたことです。普通、コンビニの店員はお兄さんやお姉さんのアルバイトが多いと思いますが、私のような中年のおじさんのアルバイトが連鎖倒産で増えたということです。特異な光景でした。

当時の大蔵省は護送船団方式で「大手20行は潰さない」と思われていましたが、結果的に拓銀を救うことができず、拓銀は経営破綻せざるを得ませんでした。拓銀は経営破綻したうえで北洋銀行に営業譲渡することになるのですが、宮沢喜一さんが「子どもがお相撲さんをおんぶするようなものだ」と言いました。相当に無理があったということです。結果的に大蔵省は、都銀や大手証券会社が経営破綻すると、とんでもない混乱が起きることを学習することになった。津軽海峡の向こうで、都銀が破綻したらどうなるかという壮大な実験を行うことになってしまったのだと私は思っています。拓銀破綻の時も預金保険機構によって、預金を保護する仕組みはありましたが、信用不安に陥った銀行を助ける、正確に言うと「破綻前の金融機関に対して、公的資金で予防的に資本注入する仕組み」が当時はありませんでした。

▼公的資金投入で銀行の一時国有化、それでも止まらなかった金融危機

そこで政府は慌てて法律を作りました。それが1998年の金融国会です。最終的には、経営破綻しそうな銀行には政府が公的資金を入れて一時国有化するというスキームができました。最初は、少しでも信用不安がある銀行に公的資金を入れたら、その銀行が危ないと思われてしまうので、東京三菱など健全な銀行を含めて一斉に投入することにしました。まず98月3月、長銀と日債銀を含む大手21行に1兆8156億円の資本注入が行われました。ところが、それだけでは金融不安は収まりませんでした。結果的に長銀と日債銀には再び公的資金が入って一時国有化となり、スポンサーを探して、長銀は新生銀行、日債銀はあおぞら銀行として再出発することになりました。

1997年から2001年にかけては7つの中堅生保が破綻しました。最初は97年4月の日産生命、最後は2001年3月の東京生命で、日産、東邦、第百、大正、千代田、協栄、東京と続き、東京生命は太陽・大同グループになりましたが、それ以外の6社は外資に買われました。破綻の原因は「逆ザヤ」でした。

▼“魔の金曜日”の日銀記者クラブ

その後もしばらく、日本経済は長いトンネルが続きます。米国のITバブルの影響を受け、日本も1999年1月から2000年11月まで「ITバブル」などと言われる景気回復がありました。しかし、ITバブルがはじけると、今度は2000年12月から2002年1月まで「IT不況」などと呼ばれる景気後退に陥ります。事実、2000年から02年にかけて、日本経済は暗いニュースが相次ぎ、私は日銀記者クラブでこれを取材しました。2000年7月には百貨店の「そごう」が経営破綻し、大手スーパーはマイカルが01年9月に経営破綻。そして経営が悪化したダイエーに対する金融支援と続きます。決算期のたびに、いろんな企業の経営危機がクローズアップされるので、9月危機、3月危機などという言葉が流行りました。

私は当時、日銀記者クラブでしたが、日銀記者クラブというのは、日銀本体だけでなく、民間の銀行を通して、いろんな事業会社をウォッチングするのが仕事です。当時私は毎週金曜日の午後が不安でなりませんでした。事業会社が民事再生法の申請などを発表するのは、たいてい金曜日の午後3時過ぎです。要するに株式市場が閉まって、翌週の月曜日まで時間的余裕がある金曜日の午後になって、重大な発表をやります。金融機関の場合は日銀クラブでやります。当時は本当に毎週のように大小さまざまな発表があるので、私は金曜日の午後は取材のアポを入れずに同僚とクラブに待機していました。「せめて金曜日の昼はうまいものでも食おうぜ」と言って、同僚と日銀周辺で少し豪華な昼飯を食べたのを覚えています。

▼具体的にどんな経営破綻があったか?

準大手ゼネコン(総合建設会社)の破綻が相次ぎました。01年12月に青木建設、02年3月に佐藤工業が破綻しました。この時、小泉首相は青木建設破綻について「構造改革が順調に進んでいる表れではないか。特別な金融危機というか、金融の混乱が起きない限りは、動きを見守りたい」と述べました。

▼再び起こった金融危機―りそな銀行への公的資金再投入

その後、再び金融不安が起こりました。りそな銀行です。そこで政府は03年5月、初の「金融危機対応会議」(小泉首相が議長で、関連閣僚、日銀総裁が出席)という会議を開き、りそな銀行に公的資金を再投入し、資本増強することを決めました。りそな銀行は都市銀行を破綻させずに初めて公的資金を予防的に投入したケースになりました。りそなへの資本増強で日経平均株価も反転し、景気は上向きました。当時は竹中平蔵金融担当相の方針で、金融庁が大手行に対し不良債権処理の促進と資本充実を求め、特別検査を通じて、銀行の資産査定の厳格化を進めていましたが、りそな銀行への公的資金再投入は、政府がハードランディングからソフトランディングへ政策を変更したというメッセージを市場に送ることに成功しました。この辺りから、日本経済は緩やかな景気回復に向かい、企業の経営破綻は少なくなりました。その後は目立った金融不安も起きていないと思います。政府の金融危機対応会議も、その後03年11月に足利銀行の問題で第2回の会議が開かれましたが、その後は開かれていません。

講演会の様子RIMG12903講演の様子

▼金融緩和と円安で誘導された「デフレ好況」

景気動向には山と谷があり、好況と不況を繰り返すことになっています。日本経済はずっとデフレが続いています。しかし、デフレだからといって、必ずしも不況とは限りません。好況の時もありました。ここは注意が必要だと思います。

アベノミクスで景気が少し上向いているせいか、最近はあまり聞かなくなりましたが、新聞は一時期よく「デフレ不況」という表現を使いました。「デフレだから不況」というのは一見親和性があってわかりやすいようですが、正確ではありません。事実、デフレ下でも好況が続いた時期がありました。それは「戦後最長の景気回復」と言われた2002年2月から08年2月までの73カ月、6年1カ月の景気回復です。デフレなのに景気が回復していたわけですから、「デフレ不況」ならぬ「デフレ好況」でした。

当時は小泉政権から第1次安倍政権の時代で、「いざなぎ景気」(1965年11月~70年7月、57カ月)や「バブル景気」(86年12月~91年2月、51カ月)を抜いたと、騒がれました。しかし、大多数のサラリーマンや自営業者、消費者に実感がないと言われました。従って、今も「○○景気」と名前が定着していないんじゃないでしょうか。

▼なぜ実感がなかったのか?

これは輸出主導の景気回復で、多くの労働者の賃金は増えなかったからです。政策的には日銀の量的緩和による、当時は速水総裁から福井総裁でしたが、金融緩和で円安に誘導し、さらに政府は法人税率を引き下げて大企業・製造業を優遇しました。

その意味では今のアベノミクスと似ているというか、この点においては同じことをやっています。当時は今よりも製造業の海外現地生産が進まず、まだ輸出が多かったので、戦後最長の景気回復が進んだんだと思います。大企業・製造業の輸出企業は儲かったが、労働者に分配せず、内部留保に回した。連合や日本共産党的に言うと、「内部留保にせずに労働者の賃金に回せ」とうことになりますが、経団連的に言うと「いつまた景気がおかしくなるかわからないから、事実、その後すぐにリーマン・ショックが来たわけですが、企業はベアなど論外で、内部留保に回すしかない」ということだったのだと思います。

しかし、その後、民主党政権時代の2011年10月に1ドル=75円32銭まで進んだ円高で、輸出企業の現地生産が進み、円安になっても昔ほど景気がよくならなくなってしまいました。これはアベノミクスの最大の誤算かもしれません。

▼「戦後最長の景気回復」期に起きたライブドア事件と村上ファンド事件

資料1毎日新聞2006年11月7日夕刊村上ファンド解散(資料①毎日新聞2006年11月7日夕刊村上ファンド解散)

政府の公式見解では2002年2月から08年2月までの73カ月、戦後最長の景気回復が続いたことになっていますが、この好況期に何が起きたかというと、企業買収です。2006年はライブドア事件、村上ファンド事件などがありました。これも面白い統計があるんですが、日本国内のM&A(Merger and Acquision、企業の合併・買収)は景気動向に左右され、景気がよくなると件数、金額とも増えます。

ライブドアの堀江貴文氏が、フジテレビやニッポン放送株を買い進め、元通産官僚の村上世彰氏が率いる村上ファンドが阪神電鉄株を買い占め、結果的に阪急電鉄が阪神電鉄のホワイトナイト(白馬の騎士)として登場し、ライバル同士だった阪神と阪急が経営統合するという事態になりました。私は兜クラブという所で、逮捕される直前の村上氏の追っかけ取材をずいぶんやりました。当時、企業の株価は、戦後最長の景気回復とはいえ、比較的割安で、買う側にすれば買い時、チャンスでした。さらに日銀が金融緩和をしたこともあって、外資がハゲタカファンドなどと言って、日本企業を買収するケースが目立ち、私もハゲタカファンドをいくつか取材しました。M&A、敵対的買収などという言葉をよく聞いたのが、リーマンショック前の2000年代初めから後半にかけてです。

私はライブドア事件にはかかわっていませんが、村上ファンドの阪神電鉄の敵対的買収には、兜クラブのキャップとして、村上ファンドの主要人物に当たりました。村上ファンドは阪神電鉄の筆頭株主となり、ファンドが推薦する9人を取締役に選任するよう求めたり、プロ野球の阪神タイガース上場などを要求しました。

そこで阪神電鉄は05年12月に京阪電気鉄道に阪神株を買ってもらえないかと打診しましたが、価格面で折り合いがつかず、ホワイトナイトはなかなか現れませんでした。

結果的に阪神のライバルだった阪急ホールディングス(HD)が阪神電気鉄道株の公開買い付け(TOB)を行い、村上ファンドもこのTOBに応じて阪神株を売り抜け、阪急と阪神は経営統合することになりました。村上氏はライブドアのニッポン放送株取得をめぐるインサイダー取引の疑い(旧証券取引法違反)で東京地検特捜部に逮捕され、有罪が確定しました。

インサイダー取引で逮捕される直前、村上氏はシンガポールに拠点を移し、私はシンガポールの事務所の電話番号を調べ、電話したこともあります。逮捕寸前に帰国する時、関空に降りて、新幹線で帰京。東京証券取引所で異例の記者会見をしました。これが2006年6月5日です。

その時の有名なセリフが「聞いちゃったと言われれば、聞いちゃった」というものでした。この時も村上氏は一方的にまくし立てました。私は会見場のすぐ横の兜クラブで、TBSのモニターで会見の様子を見させてもらい、夕刊用の原稿を書いていました。会見場には別の記者が入り、ケータイ電話からメールで中の様子を伝えてきて、それを取り込みながら原稿を書いたのを覚えています。

▼政権交代とアベノミクスの行方

資料2毎日新聞2007年10月20日夕刊G7共同声明(資料②毎日新聞2007年10月20日夕刊G7共同声明)

その後はリーマン・ショックがあり、日本でも「リーマン・ショック不況」(2008年3月~09年3月、13カ月)がありましたが、比較的回復は早く、東日本大震災と原発事故がありましたが、なんとか景気は持ちこたえ、現時点で日本経済は「2012年11月に景気の底を打って、12年12月から景気回復に向かっている」というのが政府の公式見解です。これはまだ暫定ですが、民主党から自民党への政権交代と重なっています。しかし、これは米国経済の回復、欧州危機の沈静化など外的要因もあり、仮に民主党が政権をとっていても円安が進み、株価は上がったとみる専門家もいます。アベノミクスの評価は正直、まだよくわかりません。もちろん、14年4月の消費増税をはさんで、四半期ごとの実質GDP成長率は14年4~6月、7~9月と2四半期連続でマイナスとなりましたから、12年12月以降も、どこかに景気の山と谷があるのは間違いありません。

景気を測る指標は鉱工業生産指数や消費者物価指数、株価などいろんな指標がありますが、さきほどのM&Aの件数で見る限り、2011年を底に12年以降は増え、13年、14年と増加し、14年は04年を追い越すレベルとなっています。

▼これが何を意味するのか?

村上ファンド事件後、マスコミが騒ぐような敵対的買収は見られなくなりましたが、景気回復が本物であれば、国内でも企業買収が活発化するかもしれません。

日銀が2%の物価上昇を実現するため、さらなる金融緩和をしたら、恐らく一段と円安が進み、日本経済に悪影響を与えるでしょう。米国のFRBが利上げを実行すれば、何もしなくても円安が進むはずです。果たしてそれがよいことなのか。いずれにしても、世界の中の日本経済を、今後も経済記者のはしくれとしてウォッチングしていきたいと思います。

▼3.11直後に書いた「原発『安全神話』崩壊」の記事

資料3毎日新聞2011年3月13日朝刊原発安全神話崩壊(資料③2011年3月13日毎日新聞朝刊原発『安全神話』崩壊)

最後に、添付した毎日新聞の紙面です。これは今日のテーマとは直接関係ありませんが、2011年3月13日付毎日新聞(大阪本社発行)の3面です。「原発『安全神話』崩壊」という大きな見出しで、私が東京電力福島第1原発の事故について書いています。私は毎日新聞経済部で、ずっと脱原発の記事を書いてきました。

震災が起きたのが11日で、この原稿は翌12日の午後に書いています。この時は原発事故の情報が錯綜し、何が起きているのか、なかなかわかりにくかった。当時、私は大阪本社経済部のデスクで、「経済部で原発について何か書いてくれ」ということになりました。

おそらく日本の新聞で、あの原発事故の後、「原発の安全神話が崩壊した」と書いたのは、この私の記事が最初ではなかったかと自負しています。もちろん、同じ日に「安全神話の崩壊」と書いた他の新聞もあったかもしれません。しかし、あの時点で、あの状況を理解して、的確に書ける記者は限られていたと思います。

ちなみに毎日新聞についてはデータベースで調べてみました。毎日新聞の東京本社と大阪本社の本紙紙面で、「原発・安全神話・崩壊」のキーワードで検索すると、110本の記事がありました。その中で原発事故後、一番最初に「原発の安全神話が崩壊した」と書いたのは、やはりこの私でした。その後、いろんな新聞が同じことを書きますが、私は記者として、あの時、この原稿を書いたことを誇りに思っています。

私の高校の先輩で、毎日新聞の大先輩でもある作家の井上靖は、新聞記者時代、終戦の日に天皇の玉音放送の記事を書いたことが、記者として最も心に残り、誇りに感じているという趣旨の話をしていました。私にもいろいろあります。この記事は特ダネではありませんが、記者として忘れられない思い出です。

質問コーナーRIMG12927

▼質問コーナー

会場からは、国内銀行の倒産問題、国内と海外メディアの話題、自然環境破壊と経済の問題、取材源の秘匿はどうやっているのか――等の質問が出た。特にドイツ文学科出身なのに経済部配属となり、取材に困らなかったのかという質問があった。川口さんは「拓銀が破綻するまで、できれば経済とは一生かかわらず、記者生活を送りたいと思っていたが、それどころではなくなった。97年秋から経済の入門書を読みあさり、わからないことは、その道のプロに質問して教えてもらった」という。

「特に経済部の記者となってからは、生損保や銀行など金融機関の広報や中央官庁の官僚に頭を下げ、わからないことをマンツーマンで教えてもらった。記者の特権かもしれないが、著名な大学教授やエコノミストにも名刺1枚で会いに行った。本や論文を読んでわからないことがあると、その筆者に会いに行き、教えてもらうこともあった。そうやって人脈を広げ、その分野の一流の専門家に取材することができた。そうやって、私を助けてくれたすべてのみなさんに感謝している」と、ドイツ文学科出身の経済記者として苦労話と取材の醍醐味を披露した。

懇親会乾杯RIMG12957懇親会の様子

▼感想

川口さんからは、「失われた20年」といわれ日本経済の現場、特に北海道拓殖銀行の破綻を中心にわかりやすく説明していただき、日本経済史の流れがよくわかった。自分の周囲をみても、大手銀行や企業が保養施設としてもっていた広大な土地には、今では住宅が立ち並び時代の流れを感じる。自分自身が動きの激しい外国銀行や外資系化粧品会社にいたので、興味深くお話を伺った。

今年創設された上智大学ドイツ文学科同窓会の会長兼事務局長もされているという多忙な川口さんだが、今後のご活躍をお祈りしたい。(文責 ’77外独 山田洋子)