◆タイトル:戦後70年 戦時下の上智大学〜国破レテ1号館アリ 〜写真展と講演会
◆日時:2015年5月31日(日)
◆時間:11:00~15:00
◆場所:紀尾井坂ビル1階115教室(図書館の奥、11号館を入って左奥のビル)
◆主催団体:マスコミ・ソフィア会

マスコミ・ソフィア会主催写真展・講演会「戦後70年、戦時下の上智大学〜国破レテ、1号館アリ」が、5月31日(日)、オールソフィアンの集いの会場内紀尾井坂ビル115教室で開催されました。

会場には学徒動員で陸海軍に入隊した先輩や上智大学史資料室より提供された、70年以上前の学生の教練の様子など上智大学関連の写真が展示されました。

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■戦前の上智大学

1937年(昭和12年)7月「盧溝橋の1発」から始まった「日中戦争」(当時は 日支事変と呼ばれた)は戦線が拡大し中国大陸全土に及んだ。1939年(昭和14年)満蒙国境で「ノモンハン事件」起こる。大敗北だったが軍部は国民に秘匿。9月、ドイツ、ポーランド進攻「第2次世界大戦」始まる。文部省『国体の本義』を発行。敗戦までに200万部を発行、教育関係者に配布し「大日本は神国」を国民に徹底した。中国との戦争は始まっていたが、日米開戦までは上智学内では平穏に授業が行われていた。

当時の四ツ谷駅
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現ソフィア通りに面した上智大学1号館旧正門から入る配属将校に敬礼をする学生。もし敬礼を失すとビンタが飛んだ。当時の学園の様子は、作家遠藤周作(42予科中退)著小説『札の辻』に詳しい。2-3

■学徒出陣

1941年(昭和16年12月8日、「真珠湾攻撃」を行い米英と戦争状態に入り、その後、東南アジアに軍を進めたが、翌昭和17年6月、ミッドウェー海戦で連合艦隊の主力空母4隻を失い大敗北を喫した。海軍はこれを軍事機密としたため、この後の「大本営発表」は全てウソとなった。昭和18年、次第に太平洋での制海権、制空権を失い敗色濃厚となる。昭和18年10月「学生・生徒の徴兵猶予停止」となり、学徒動員が始まり上智大学生含め約13万人の学生が戦場に赴いた。

上智大下級生の拍手に送られて1号館前銃を担いで行進する上級生
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■教練

「教練」は大学、高等学校(旧制)、中学校(旧制)の必修科目で、これをとらないと卒業できなかった。学内で行われる「教練」の他、千葉県の習志野練兵場などで行われる野外演習にも参加しなければならなかった。

遠くから上智大学学生の軍事訓練を見守るヘルマン・ホイヴェルスS.J
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サーベルを手にしたリーダーのもと野外演習で分列行進する上智大学生
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■まず教育に携わる人材を

四ツ谷周辺は昭和20年4月13日深夜のアメリカ空軍B29の爆撃によって焦土と化した。上智大学は、旧校舎(482坪)は全焼したが、新校舎(1号館)(1366坪)は焼け残った。そして米占領軍先遣隊の戦艦ミズーリーで来日した従軍司祭5人が9月5日に、食糧と衣服を持って上智大学を訪れた、そして、その時、上智のS.Jたちは「食糧などの物資より、教育に携わる人材を送って欲しい」と望んだという。

重なる米軍機B29の爆撃で焼け野原となった四ツ谷界隈、上方中央右が上智大学1号館(1947年頃撮影)
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1945(昭和20)年9月5日上智大学を訪問した従軍司祭たち。前列 左からポール・オコナーS.J、チャールス・ロビンソンS.J、サムエル・レ イS.J、後列左から4番目土橋学長。オコナーS.Jは後に米ザビエル大学(オハイオ州)の学長となる(Xavier University Archives蔵)
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