◆タイトル:戦後70年 戦時下の上智大学〜国破レテ1号館アリ 〜写真展と講演会
◆日時:2015年5月31日(日)
◆時間:11:00~15:00
◆場所:紀尾井坂ビル1階115教室(図書館の奥、11号館を入って左奥のビル)
◆主催団体:マスコミ・ソフィア会

会場では、講演会「先輩は語る」として、江副隆愛氏、中島重行氏、村松正氏、上田早苗氏の学徒動員の経験のある4人の大先輩から、それぞれ当時を振り返りながら思い出が語られました。

■殴られるのが教育だった軍隊での毎日:江副隆愛(47文史)

江副氏
江副氏

軍隊での毎日の訓練は厳しかった。殴られるのが教育だった。海軍は訓練で5分前集合が基準だった。訓練で棒倒しなど競技で負けると夕飯抜きになったりするので夢中だった。自分は、飛行機の訓練中に特攻隊員となった。教官の同期が関行男君だったことで、それで当然と思っていた。飛行機で出撃しようにも燃料のガソリンが無く敗戦となった。帰宅して、おそるおそる家の庭から入って母親に「戦いに負けてしまって済みません」と謝った。今の若い人には、最近できた映画「永速のゼロ」を是非見てほしいと思っている。

江添氏油絵
江添氏油絵

講演の様子
講演の様子

■山小屋で培った上智魂:中島重行(44専新)

中島氏
中島氏

この部屋の写真展示にある八ヶ岳の上智ヒュッテに跋渉班で昭和18年5月頃に行きました。私は、この山小屋で上智魂を培ったのです。学徒動員で陸軍に入隊して山梨の甲府重機関銃隊に配属されました。ところが訓練中に指をケガして病院に1ケ月入院してしまいました、その間にいろいろ勉強して陸軍予備士官学校に入りました。しかし、全員航空隊に移属し、私は水戸航空通信学校に入り見習士官になりました。終戦時は松戸航空隊にいました。やることもなくて昼寝していたら隊長に見つかって殴られた。幸い私は軍隊で殴られたのは、この時の1回だけでした。当時我々の乗る飛行機の修理等は、朝鮮人がやらされていました。朝鮮人の中には残酷にされた人もいて、恨み骨髓だったろう。朝鮮人には親玉がいて、人を集めて軍部に売り込んでいたようです。

八ヶ岳ヒュッテ
1-4

会場の様子
会場の様子1

■宣戦布告に友達と「なんとバカなことをしたのか・・」と:村松正(49経経)

松村氏.jpg(120×120)
松村氏

私は、戦争前年の昭和15年に大学予科に入りました。入学したもののドイツ語の授業には本当に苦労した。たしか東京外国語大学より、授業時間数が2時間多かったように思う。入学の翌年の昭和16年に宣戦布告があった。友達と「なんとバカなことをしたのか・・・」と、話合った記憶がある。昭和18年9月に学徒の召集猶予が解除され、10月21日に神宮外苑で学徒出陣壮行会があった。あまり真面目にやる気はなかったが、女子学生が観客席にいっぱいいて張り切ることになった。私は北朝鮮で幹部候補生になったが、兵隊ではなく経理学校に入った。満州に派遣され、通化に赴任した。現地の軍隊は日本本土は焼け野原にして、政治の中心を通化にもってくると考えていて、戦後は食糧など豊富にあり、居留民の面倒をみるため帰国が遅くなった。帰還途中、朝鮮の36度線でつかまり、ソ連のボルガのあたりまで連れていかれた。昭和23年に復学、半年で旧制で卒業した。

会場の様子
会場の様子2

■絶対に戦争はしてはならない:上田早苗(49経経)

上田氏
上田氏

1)軍隊のこと
当時特別幹部候補生が設けられ、私は一度受けて落ちたが、推薦で合格した。軍隊の教育方針に変更があって一度もなぐられたことはない。外地へ行く予定だったが、兵隊を運搬する船がなくなり、重機関銃隊に配属となった。私は、銃の訓練で100メートル先の石をはじき飛ばした。しかし昭和20年の4月からは自分一人が隠れる「タコツボづくり」となった。それは上陸した敵戦車対策だった。後はイモ作りの作業の食料確保で軍隊教育はなかった。終戦時は見習士官で天皇陛下の玉音放送を聴いた。

2)上智のこと
上智に戻った時。ボッシュ神父から「共産党をどう思うか」と聞かれ、専門部へ入学した。昭和22年に結婚したので、卒業時には子供がいた。子供が可愛くて育児に忙しく、勉強できなかったのでノートを借りまくった。

3)政治のこと
絶対に戦争はしてはならない。若い人に特に言いたい。一度認めると、あとは事後承諾で押し切られる。教育は恐ろしい。洗脳されると、それで良いことになる。そうならないようにしてほしい。

記念撮影
記念撮影