マスコミ・ソフィア会常任幹事で、2020年度の第29回コムソフィア賞を受賞させていただきました江副隆秀(1975年文・新聞卒)です。今回の「常任幹事会だより」は私が担当させていただきます。

日本は「人」が国を作っているということを理解できる国にならなければ

昨今の新聞記事を見ていると、事件・事故の内容が非常に幼稚で、「日本人」そのものが劣化しているような気がしてなりません。
これらの背景には、事件を起こした容疑者達の生育過程が強く影響していると感じています。私の子供の頃は、子供達がグループで遊ぶのが普通でした。というか、個人で遊ぶゲームのようなものは僅かしかなく、鬼ごっこにせよ、野球にせよ、グループでゲームするのが当たり前の時代だったのでしょう。喧嘩もしましたが、誰かが怪我をすれば、皆で世話をするというような状況でした。その中で人間関係を築いていったような気がします。
しかし、今、成人しつつある世代は、ITネイティブなどと呼ばれ、もてはやされてはいるものの、その実、失敗すればキャンセル・ボタンを押すだけで、一旦、クリアできるゲーム感覚で人生を見ているのではないかと思うことがあります。
私の孫達も、ごたぶんに漏れずIT機器の操作は得意ですが、実体験のなさにはこちらが驚かされるほどです。
アメリカでは、テック・フリー、即ち、IT機器から子供達を離して体験させるという試みが、随分前から始まっています。これは、ネットで検索すると、すぐ出てきます。
日本の治安を守るのは、法律というより、個々人の判断ではないかと思うことがあります。
そして、その個々人を育てるのは、教育であり、公的には学校、そして、私的には家庭教育だと思います。
そのどちらも大切ですが、その大切である「教育」、そしてその背景にあるキャリア教育について、日本社会がどうそれを認識しているのかについて、最近の日本語学校の周辺の経験から少し述べてみたいと思います。

*留学生受け入れに関して
私は、1975年に上智大学を卒業した直後から、外国人に対する日本語教育を両親と一緒にしてきました。無一文に近い状態で両親と日本語学校を開き、その後、さまざまな幸運に恵まれ、学校法人を設立することができました。
今回起こったコロナ禍は、この46年間の仕事の中で、前代未聞の未曾有の経験でした。
この文章を書いているのは、2021年10月です。
2020年4月、2021年4月と、2年間に渡り、外国人留学生が日本に入国できないという事態となりましたが、どうも、この外国人留学生が来日できないのは、実は、日本という国が、「人の人生」をほとんど視野に入れていないのではないかと思うようになりました。
少し海外に目を開くと、このコロナ禍においても、日本より遥かに感染者が多かったG7各国でも、留学生を受け入れているのです。
G7各国で留学生を受け入れていないのは、日本だけでした。
なぜ、日本だけが留学生を受け入れていないのだろうかということは非常に疑問でした。この記事を書いている時点では、数万人の外国人留学生が日本への「留学ビザ」を持ったまま、海外で待機しているのです。
海外の方からすると何か日本には問題があるのではないかという勘繰るぐらいの状況になりつつあります。これは、「日本留学の扉を開く会」という海外で待機している留学生の声を日本に届けようというボランティア組織に寄せられた海外からのメールでも明らかになっています。
10月中旬の現在、東京における感染者が激減し、この後、新規入国者の入国が可能になるかも知れません。
しかし、外国で待機している留学生達は、安心はしていません。
それは、昨年11月から一時的に国境が開いたものの、今年の1月7日に再び国境が閉められたからです。
11月から1月にかけて入国しても、開いている空港は、成田・羽田・関空の三個所で、到着後2週間の隔離や公共交通機関を使ってはいけない、などの条件から、「それでは、経費がかかるので、2021年の4月に入国を延期しましょう」という学生が続出しました。
しかし、彼らにとっては、あろうことか2021年1月に再び国境が閉まったのです。
この時の経験があるので、今度も、もし国境が開いても、学生達は「日本国内で感染者が増加したら、直ぐにまた、国境を閉められてしまうかもしれない」と不安になっているのです。

*待機学生は日本の姿勢を見ているのでは
G7の中で、アメリカもイギリスもコロナ禍での外国人の入国を止めたことはありませんでした。ドイツ、イタリア、フランスは、2020年6月の段階で、入国を許可し、カナダは2020年11月に国を開きました。
そのため、日本人留学生はそれらの国々に行っているわけです。
この状況を海外で待機している来日希望の学生達は情報として得て、「日本人は留学として私達の国に来られるのに、なぜ、私達は日本に行けないの」となったのだと思います。

*生涯学習とライフ・キャリア・プラン
ここからが私が言いたいことです。
即ち、世界は「人」で動いているので、どのように「人」は活動するのか、どのように「人」は動いていくのか、そして、将来、どういう「人」に育ってほしいか、ということを常に考えなければならないということです。
10月末に行われる選挙が始まった時、各党の政見放送の中には、10万円を配るというような政策が並んでいましたが、教育給付金の話はあっても、「人をどう育てたいのか」という内容の話はありませんでした。
また、一方、日本では「生涯教育」と言うと、どこか成人してからの再教育のイメージがついて回ります。
しかし、英米の論文の「生涯教育」の基本は「ライフキャリア」です。
生まれてから亡くなるまでのスパンの問題なのだと思います。
例えば、Donald E. Super (1910-1994)のライフ・キャリア・レインボーは人生を5段階に分けて、「成長期(0-15)、探索期 (15-25)、確立期(25-45)、維持期(45-65)、下降期(65〜)」このように分類しています。
Erikson E.H. (1902-1994) は八つの発達段階があるとして、「乳児期→幼児前期→幼児後期→学童期→青年期→成人前期→成人期→老年期」と分けています。
そして、これらの発達課題と基本的不信感、獲得できる心理的特性は次のように指摘されています。

江副表1

Levinson D.J.(1920-1994)も人生を四つの発達段階と過渡期と分けています。そして、17-22歳を「成人への過渡期」と述べ、28歳までを「成人前期」とし、「大人の世界へ入る時期」として区分しています。

以上述べたのは、全て、1900年代の発想で、今日の欧米ライフプランの基本です。
ただ、基本は変わっていないのですが、それより先に社会が変わってしまったようです。

*プロティアン・キャリア
最近のキャリアプランは、単に人の人生のキャリアだけでなく、社会の変化に対応できるようなものが多くなりつつあると思います。
Hall, D. T. (1940-)のプロティアンキャリア(時代に合わせて、自分に可能な仕事を変化させつつ発展させる能力)などがその典型だろうと思います。
これは昨今の業種崩壊を考えると理解しやすくなります。
少し、話がズレるように思われるかもしれませんが、プロティアンキャリアがなぜ必要かについても少し例を出して説明しておきたいと思います。
ここではわかりやすい例として、印刷業を取り上げました。
1970年代に、ある印刷技術者がいたとします。
しかし、1970年代から、2020年代まで40数年間に、彼の職場は劇的に変化したのではないかと思います。その人の人生で印刷技術を生かすことができるかできないかという問題は、時代の変化に追いつけるかどうかという問題でもあるのです。
時代の変化に追いつけない場合、取り残されてしまいます。
昔は、紙とインクに代表される印刷技術も、今や、P Cを理解していなかったら何もできないということなのです。

(図 1970年代から現代に至る過程での変化)
江副表2

この変化はある意味わずか40数年間で起こったことです。
その40数年間で、九つも分類ができてしまうほどの変化が起こったのです。
こうした環境の変化を理解してキャリアを変化させつつ対応していくのがプロティアンキャリアです。
これらの現実を見ていくと、日本の「生涯教育」のイメージと異なった教育イメージが見えてきます。
スパンを長く捉えています。
生まれた時から亡くなるまでの軸の中で、変化する社会に対応しながらライフプランを考えるという考え方と言ったらいいでしょうか。
そして、常に指摘されるのは、「探索期 (15-25)、」であるとか、「青年期→成人前期」「17-22歳を「成人への過渡期」と述べ、28歳までを「成人前期」といった言葉です。
これは、10代後半から20代中盤あたりまでが、人がもっとも活動的に、次の自分のステップのために動く時期だと指摘しています。
その人物の成人への成長過程がその人の人生を決めるもっとも重要なところで、留学とは、まさに、この時間軸のこの時期に当たるのです。
日本でも「飛び立て」など、文科省が海外に学生を送るプログラムを用意しているのは、こうした世界的な傾向を取り入れたからだと、理解しています。

*待機学生はどう感じるか
外国人の留学生は、基本的に、制度に縛られるものではないと思います。
留学の時期を決めるのはその個人のキャリアプランによるものだといった方が正確だと言えます。
そのため、「高校を卒業した時」とか、「大学の2年生の時に休学して」とか、それぞれの学生が自分のキャリアプランの中で「留学」という時期を決めるものだと思います。
手続きを取ったのに、入国そのものが断られた場合は、自分のキャリアプランを書き換えなければならなくなります。
その点、同じように入国を拒否しているオーストラリアやニュージーランドの場合は、「いつ開く予定だ」ということを明示しています。あるいは、明示しようと努力しています。
しかし、日本からの発信はありません。
待機留学生としては、「この先どうなるかわからない」あるいは、「何も情報が入らない」というのは「何をしていいのかわからない」ということになります。
「今のアパートはいつまで契約したらいいのか」
「今の仕事はいつ辞めたらいいのか」
「今の学校は休学したほうがいいのかよくないのか」
あらゆる選択肢と判断しなければならないことがキャリアプランに関わります。
実際、2021年4月入学予定の学生の半数近くは日本行きをキャンセルしたようです。
当校に来る連絡も次のようなものが増加しました。
「自分の国での進学を決めたので留学をキャンセルします」
「遊んで待っていられないので、新しい仕事に就いたので、日本留学を諦めました」
「2年契約なので、今回契約したらその後2年間、引っ越しができないので、日本留学をキャンセルします」
こうしたメールを日々受け取らなければならない昨今の状況には、残念としか言いようがありません。そして、このようなメールが日々増加しているのです。
これが今、私達の学校以外の日本語教育機関でも、実際にあちらこちらで起こっていることです。
日本は、こうした自立したキャリアプランを描けるレベルの日本ファンを失ってしまう過程にあるようです。これは、あまりにもったいない話だと思っています。
待機している学生としては、「コロナ禍が一段落したら開国します」とか、「いつ開けるか正確には言えませんが、もうしばらく、待っていてください」の一言でも、とにかく、万単位の人数の「留学の許可証を持っている待機学生」に発信してほしいという気がします。

*日本語学校の印象が背景に
一方で、日本語学校・日本語教育機関に限って印象を述べると、世間一般ではあまり印象が良くないこともあるかもしれません。偽装留学生を入れているとか、不法残留者を多数出しているとか、マスコミのニュースではとにかくいい話はあまり聞きません。
現在の日本語教育機関が玉石混交状態であることは確かだろうと思います。
このような状況の中でも、実際には、日本が好きで、日本に憧れて来る学生達はたくさんいます。
今回、そうした日本贔屓の学生達の方が、自分のキャリアを真剣に考えて日本を選んでいるのです。ただ、同時にこうした自分のキャリアを大切にするため、空白の時間がもったいないということで優秀な人ほど先にキャンセルを申し出ている傾向があるように感じられます。
これは体感ですが、間違っていないと思われます。
日本の社会全般の中で日本語教育機関が正当に評価されていないという大きな問題ではないかとも思っております。

*空白の世代の誕生
次に、今回のように留学生が入らない年ができると、何が起こるかについて書いてみたいと思います。
2020年4月生、2021年4月生と、一番重要な時期の留学生の入国がなかったことは、この先ずっと、この世代の留学生達は空白のまま進行することになります。
その世代の卒業生はいない。
その世代の就業者もいない。
このような空白を生まないために、G7各国のみならず、韓国その他の多くの国では留学生を受け入れているのだと思います。

入国拒否は空白の年代を作ってしまう
江副表3

この先に起こる可能性のあること、それを私達は考えながら、この国の未来や近未来の形を考えていかなければならないと思っているところです。
この考え方は、重要だと思います。
そうでなければ、この秋に留学生の受け入れをしても、また、第六波のコロナ禍が来襲した時、再び国を閉めるようなことがあったら、日本を目指している留学生達はいなくなってしまうだろうと考えられます。
日本に必要なのは、コロナ禍の蔓延防止であることは言うまでもありませんが、同時に、個人のキャリアを中心に留学というのが実行されるのだということを理解することではないかと思っています。

*日本では留学生の人生を理解していない
人の人生があって、その中で留学という時期があり、それに合わせて学生を受け入れるのが留学の基本です。
留学生を受け入れる国の側の留学生に対する理解でなければいけないと思っています。
しかし、日本は、留学生の人生というスパンで、「留学という時期」があるということを理解していないような気がします。
それは、もしかすると、それ以前に日本の社会、あるいは日本という国が、「人の人生」というスパンで社会が動くということそのものを理解していないのではないかと私は思い始めています。
初めに述べたようにそこに影響するのが、人生を考える「ライフキャリア」だと思います。
もし、日本政府の役人が若い時に、「ライフキャリア」の学習をしていたら、どの時代にどのような人材が必要になるのかを想像できたのではないかと思っています。
Erikson E.H. (1902-1994) は八つの発達段階では、「ライフキャリア」を「乳児期→幼児前期→幼児後期→学童期→青年期→成人前期→成人期→老年期」と分けていますが、現代は、「乳児期→幼児前期→幼児後期→学童期」も重要だと認識されるようになりました。
小さな子供の頃に、「スマホゲーム」を自由にやらせることが本当にいいことだろうか。
「日本はデジタル化が遅れたから」と言って、小学校の授業にどんどんコンピューターを持ち込めば、「デジタル化」の問題は解決するのだろうか。
今、アメリカなどで、始まっているIT機器から児童たちを離す「テックフリー」はなぜ起こっているのか。
実は、これら全ては、「人が社会を動かしている」という基本的な問題を深く考えずに、対症療法的に処理していることの積み重ねではないだろうか。
G7各国の中で、日本だけが今に至るまで留学生を入れなかった問題の裏には、大きな日本社会の「人」に対する理解が不足しているような気がしてならない。

以上のようなことを考えている今日この頃です。

2021.10.18
マスコミ・ソフィア会 常任幹事
新宿日本語学校校長 江副隆秀(1975文新)