ここだけの話
ある元特攻隊員の証言 篠田愛理(1980院前外言)
※この記事はコムソフィア誌第67号用に書き下ろした記事の再録です。
上智大学創立100周年を機会に母校のいろいろな歴史が堀り起こされています。今回私は縁あって、学徒動員、特攻隊を経験した山本芳朗(91歳)先輩にお目にかかり、当時のお話を聞くことができました。貴重な発言であると思い、ここにまとめて紹介することにしました。
山本 : 私は昭和17年、従兄弟の勧めで西宮甲陽学院から上智大学専門部経済学科に入学したが、戦況悪化のため20歳の秋、昭和18年9月に繰り上げ卒業となり徴兵検査を受けた。10月には「学徒出陣令」が発せられ、私は海軍を志願、12月に広島県呉の大竹海兵団に入隊した。秋の雨の明治神宮外苑での学徒出陣壮行会では、関東出身の上級生、同級生も多数参加した。
その後、昭和19年2月に海軍第一期飛行専修予備学生として、三重県津の海軍航空隊で教育を受けた。そこでは操縦、偵察、用務の三班に分けられ、私は偵察の訓練を受けた。三重県鈴鹿海軍航空隊に6月に入隊、偵察術、通信術、射撃、爆撃などの訓練を受けた。10月には特攻志願のアンケートがあり、熱望と答えた。
その後実戦部隊に配属されるはずだったが、燃料不足で訓練ができず、更にフィリピン、硫黄島などは玉砕、全機喪失などで、航空隊は内地に帰還。私は昭和20年3月に偵察教程を終了し、茨城県の百里原航空隊に転勤して「九七式艦上攻撃機」で訓練を受けた。本土決戦に備え特攻訓練を受ける
米軍との本土決戦に備える「結号作戦」が計画され、霞ヶ浦航空隊に転勤して特攻訓練を受けたが、6月にはこの戦争に勝ち目がないことは分かっていた。日本が戦争に勝つも負けるも自分が死んだ後だろうと思った。
昭和20年8月1日の前日から水戸が大規模な空襲を受け、日立も艦砲射撃を受けた。同月上旬のある夜中、「航空隊全員号令台前集合」のスピーカーが鳴り響いた。集合すると、司令官が「ただ今大島の見張所からの連絡で、数千隻の上陸用舟艇とおぼしきものが北上中。明朝には鹿島灘に上陸の気配。特攻隊は特攻用意、他は全員配置に就け」とのことだった。搭乗員待機で部屋に戻って遺書を書き、私物を行李に詰め、部屋付の従兵に行李の送付先住所と形見も渡し、共に死ぬことになる階下の下士官と盃を酌み交わした。その内時間が経過したが、搭乗員整列の号令がかからぬまま飛行場からは飛行機整備中の爆音がずっと聞こえていた。その後小隊長の命令で本部に行くと、「先ほどの情報は、見張所が夜光虫の光を敵の舟艇と見誤ったもの。総員解散!」と言われた。まったくお粗末なことだった。そして2週間後に終戦だった。天皇陛下の玉音放送を聞いて、正直ほっとした。「特攻隊員は、米軍が上陸してくると面倒だから早く家に帰れ」と隊長に言われたが、芦屋の自宅に帰ったのは8月25日頃だった。今年は学徒出陣から70周年を迎える。私は少尉で生還したが、特攻で戦死した士官の85%は学徒出陣出身者だったという事実は決して忘れてはならないと思っている。
篠田 : 山本氏は生還したが、同期で親しかった大江桂一郎氏(昭和19専経)は特攻で戦死、暁星学園出身で一歳年上の石原正嘉氏(昭和18専商)も戦死されたという。
この二人は、山岳部で一緒に登山を楽しんだ仲だった。当時上智には学生数が少なかった割には20歳、21歳の学生の多くが学徒出陣後二年以内に戦死したと聞くと、胸が詰まる思いがする。上智大学創立100周年を盛大に祝い新たな世紀に入った今、この先輩たちに改めて鎮魂の祈りと不戦の誓いを捧げたいと思う。山本氏の話には興味深いものがまだまだあるので、機会をみてまとめたいと考えている。
歴史の証言 1945年
東京空襲で焦土化した紀尾井町界隈に立つ1号館(上智大学史資料室提供)
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学生隊出陣1号館前(1943年11月15日・上智大学史資料室提供)
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特攻服を着た当時の写真を持つ山本氏(右)と筆者(2014年3月14日)
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