今月の幹事会だよりは、初登場の大越武(1968年文新)が担当します。
老人で恐縮です。卒業後は、しがない新聞記者を50歳までし、あとの12年は上場企業の実業界に身を投じ、会社の裏表の矛盾を学びました。それ以降、今日までジャーナリズムの世界が捨てがたく、日清戦争での「死ぬまでラッパを離しませんでした」の木口小平2等兵を見習って、社会の片隅で死ぬまで大好きなペンを離さずにしていようと、フリーランサーとして舞い戻っています。
昨年の9月に、伝統ある「コムソフィア賞」の選考委員長に就任したばかりで、推理作家の巨匠・今野敏氏を選定。その選定作業の中で新しい知識の発見があり、多くのことを学ばせてもらいました。
1つに、これまで持っていた推理小説・探偵小説への偏見・無知を思い知らされました。若い時はコナン・ドイルや江戸川乱歩、松本清張らを読みふけっていましたが、新聞記者の実社会に入った途端、推理・警察小説に接しても、日々のリアルに勝るものはなく、そうした小説やドラマはその焼き直しに過ぎないと低く見てきました。
2つには、これまでの文壇の流れの中で、ドストエフスキーや夏目漱石、川端康成といった文豪と呼ばれる本流に対し、推理小説は世界観や人生を変えたりしてしまう「文学性」「文学作品」としては評価しにくく、分流と思っていました。事実、通俗小説の一種の探偵物のようで、極めて娯楽性の高い大衆迎合的な謎解きの小説のジャンルじゃないかと———。
そうした中、それを問題視したところ、選考委員の一人から手が上がり、「大衆迎合的と言いますが、今野さんの小説は病人や悩み多い弱者にとっては、癒しの小説となっているのです」と教えられたのです。ボクはそれまで、そうした視点を全くもってなかったもので、頭を強く打たれた感じで「ウーン」としばし唸ってしまい、「なるほど、そうか」と。
小説は、弱者への「癒しの文学」「慰めの文学」ともいわれてきたし、推理小説も、人間の本能の謎を追求したりしており、一方では娯楽性も人生には必要なのだから、もっともっと見直されても良いのではなかろうか、と考えるようになってきました。
2024.02.11
マスコミ・ソフィア会 常任幹事
大越武(1968年、文新)