今月の幹事会だよりは、杉村晃一(1964年 文新)が担当します。
周りに影響されて、にわか古代史マニア(?)となりつつある私。ビッグネーム・吉野ケ里遺跡に行きたいと、某旅行社の「邪馬台国はどこだ? 吉野ケ里遺跡と謎の女王卑弥呼」と銘打った古代探訪ツアーに参加しました。吉野ケ里遺跡はもちろんのこと、世界遺産の宗像大社と周辺の古墳群、金印、稲作遺構のある板付遺跡など、弥生時代から古墳時代までの、北部九州の古代を巡る旅でした。ガイドさんは、鉄を中心とした朝鮮半島との交流を強調していました。
この時代、「魏志倭人伝」に象徴されるように、中国大陸では、文字を使って、歴史や地誌が記録されるようになっていました。日本列島で、勝者の歴史「日本書紀」が編纂されるのは、まだ後のことです。
北部九州を中心に、大陸側との交流が盛んであったことを証明する遺物はたくさん出ています。では、それに携わる人々は、どのようにして異文化間コミュニケーションを図っていたのでしょうか。遺物からはきっと証明しづらい、文字による記録もなさそうなこの問題、どなたか、いい参考書があればお教えください。
吉野ケ里のムラで、見張り台があるのは、見張らなければならない事情があったからに違いないという説明を聞き、最近の若者は、職場で、(メールはいいが)電話には出たがらないという話を聞くなどするうちに、異質な集団(稲作技術を持った集団の登場など)との間でのコミュニケーションとはどのようなものであったのか、にわかマニアとして、大きな疑問を抱いてしまいました。
マスコミ・ソフィア会 常任幹事
杉村晃一(1964文新)